それぞれの認識

 書きたいことがあって、それを忘れないうちに、また自分のモチベーションが落ちないうちに書いておこうと思います。

 とはいえ、以前にも書いていたらすいません。ただ、ちょっと考えたことに僕なりのマッチする言葉が見つかってスッキリしたところなので。

 以前、訪問に向かう際にとても背の高くて足の長い女性がいました。その人は僕と同じくらいの高さがあって。履いていた物もあると思いますが、それでも高くスラっとしていました。その人を見てから自分を見ると足が短く見え、また体系もだらしなく見えて少し気持ちが萎えました。

 ここで大切なことは、普段僕は見た目に関しては気にもしておらず、そうしたことにコンプレックスを持ってはいません。ただ、その時そう見えたということです。

 たとえば、この錯視と言われる図を見てください。

 これはどちらも同じ長さなのですが、下のほうが長く見えます。しかし、おそらくわずかな人のなかに、どちらも同じに見えるという人がいると思います。その事実からはじまり、メンタル的な問題と合わさったときに、どこまでひとつの問題としてとらえるのか。

 僕がいいたいのはコンプレックスをまとう心理的な体験があるなしに関わらず、認識してしまうことはあるのではないかということです。全てがメンタルからくるものではなく、その人の認識の仕方、物の見え方というのも大事なのではないかと感じています。それによっては、気持ちが健康でもこうした僕が体験した現象を体験しうるのではないかということです。

 最終的な問題として、自分がこれではいけないと思い、そして強迫的になり疲弊するという流れはなんとかしたいかなと思ったりします。これではいけないまでよしとして、そこから強い自己否定につながったり、それを回避するのに行われる努力があまりにも大きすぎて疲れ果ててしまうことというのは避けたいかなと思ったりします。

 自分の過去の問題と、もともと持っている自分の物をとらえる認識。これはわけたほうがいいのではないかと僕は思っています。それは、自分が感覚過敏だったとして、それによってすばらしい音楽の評論家になるか、騒音で悩まされて病んだりトラブルが起きたりとなるか。自分の持っているものと体験の積み方というのは大事だと考えています。
 
 もちろん、過去の体験と結びつくことというのはなかなか避けられることではありません。ただ、それによって問題を膨らませてしまって傷つくのをそのままにしておくわけにはいきません。
 
 逆に、自分の持っている認識を過去の出来事と切り離して認められたら、それは自分を少し好きになれたと言えると思います。そしてそれは、他人の「他の人と異なる認識」を持っていることを認めることができるということにつながるのではないでしょうか。

 僕が日常で体験したことと、僕の考え方、説明の言葉がまとまったので書いてみました。自分は知っている。ただ説明できないというところから、言葉で説明できる、自分の実感したものを表現できたというのはなかなか心地も良く気持ちがよいといいますか。まさにスッキリという感じです。また、今回はちょっと認知心理学の本を読んでいて、その角度からまとまったというところも感動があったと言えるかもしれませんね。