今日も結構な暑さで

 今日はひきこもり支援関係団体連絡会議がありました。愛知県のさまざまな保健所からいろんなひきこもりや不登校などに携わる市民団体が多く集まりました。保健所の相談員さんは本当にいろんなところに異動になるようで、大変そうだなって思いました。引っ越しとか数年ごと(異動ごと)にしてるのかな。場所は愛知県図書館の5階でした。

 主に講演であったり、意見交換をしたりするわけですが、今回の講演は「ひきこもりのライフプラン 親亡き後の生活設計を考える」というものでした。先生は畠中雅子先生。

 なかなか重い内容ですね。現実の問題として遅かれ早かれやってくるもので、おそらく仕事の話し以上に耳に入れたくないし、向かい合いにくいものではないないのかと思います。現状の経済状況とこれからについてどうやって使っていくのか、また、未来に使われるお金や実際にやらないといけない手続きについてなど、結構大変。

 まぁだからこそ、支援団体であったり行政機関につながっていて、何かあったときに相談できる人を確保しておくのは大事だと思います。もちろん、プランとして準備ができているのはいいでしょうが、その中間的な措置として、つながっておいてほしいという思いもあります。

 いろいろ話しを聞いていて難しいなと思うことがありました。たとえば、これから自分で食事をつくらないといけないということで、一食くらいは自分で自炊できるようにと作ったり、できるだけ何か作ったりするというのがあります。確かに、それはいいと思うんですが、親としては残りの人生だからこそ、子どもにしてあげて喜ぶことのひとつとして食事を作るということもあるよなって思うんです。亡くなってしまったら食べることができない味ですし、親としては子どもに何かしてあげられるうちのひとつだと思うので。たとえば、本人が食事を作るのであれば、親のつくる自分の好きな味付けの料理を覚えるというのもいいのかなと思います。もちろん、縁起でもないと思うかもしれないので、それはそれぞれでいいと思いますが。そのレシピこそが大事な財産になるんじゃないかなって思ったりします。食べているときに、確かな刺激として親の存在を感じるというか。

 こういう時間って理屈ではないこともありますからね。どこまで、思いを汲んで、どこまでを最後の子育てとしての財産とするか。これはもう親子のなかでの価値観がものをいうのではないかなと思ったりします。簡単に正解、不正解を出せない問題なんだと感じます。

 働くということに関して思うこともありました。ひきこもっている人がみんな働きたくないわけじゃないと思うんです。むしろ、働けるなら働きたいという思いがあると思います。今までいろんな歩みがあって、その思いを今どう感じているかは本人のよって変わると思います。ただ、これは僕の印象ですが、ひきこもっている人が働きたいというのは、生活のためもそうでしょうが、自分たちの社会的な尊厳のために働くという印象があります。働いて普通の人間になりたい。ダメな人間の証みたいな状況から離れたいという思いが働くということに込められているような気がするんです。人って余裕があると誰かのために動くのだろうし、それにしかない充実感ってあると思います。別に仕事というものでなくても、誰かのために動けるというのであれば、それでいいのかなって思ってしまうんです。そういうなんかやりたいなって未来を自由に描けるくらい余裕のある生活っていいなって思うんですけれどね。

 もっと楽に生きてもいいと思うんですけれどね。誰がそれを許さないのかはそれぞれでしょうが。働いているかどうかで人の価値が変化する感じで、ちょっと息苦しいですね(笑)