ざつだん

 今日はもう夏の気候でしたね。いや、実際に夏はもっと暑くなりますが。楽なズボンをはいて過ごしたいくらいに暑い。それと、暑さを楽しむのに、涼しい格好でのおしゃれというのもありだなって思いました。着るものにあまり気を配らないので、少し気を配ってみてもいいのかなと感じた今日の昼。

 雑談ということで少しお話しします。僕は訪問での相談中に雑談も少しします。人によっては結構してます(笑)僕のなかで雑談というは重要で。雑談しているなかで、楽しい話しをしているときは心がのびのびとしていると思うんですよね。たとえば、子どもが好きなアニメについて興奮しながら話すみたいな場面を思い浮かべてほしいのですが。そういう心がのびのびしているというのはとてもいい。萎縮していたり、縮こまっている心がのびやかになっている時間。とても大事だと思います。それをひとりでやるというのは、難しいと思うんです。日常の中で。誰かと話しをしているときにそれが自然と生まれたらそれはすばらしい。そういう状態になるというのは、お互いに心が自由でないとならないし、そうなるのにはお互いの配慮や気配りによって生まれると思うので。それはつまりどんな将棋の名勝負でも、それには必ず相手がいるから生まれる。相手がいないと生まれないというのと同じなんだと思います。僕だけの努力で生み出したものではないということです。

 こころのびのびタイム大事。それと、自信がないと「正しさ」というのにこだわったりします。知識でも、内容でも、話し方でもなんでも。雑談の形によりますが、とにかく話しが伝わればいい、多少事実と異なっていようが内容の正しさは問わない。大事なのは、その会話のラリーで楽しい気持ちになれた、話題を共有できた、肯定されたとかそういうことが優先されることなのではないかと思うのです。たとえて言えば、お互いの楽器を奏で合うのに音の正しさではなく、音が混ざり合って生まれたメロディを楽しむのが雑談みたいな。これといって曲は決まっていないけれど、即興で相手の音を感じながらこちらが音を奏でて、お互いがそれを感じていろいろと奏でるみたいな。そこまで、考えながら雑談しているかどうかはわかりませんがそんな感覚に近いのだと思います。音をはずしているかどうかではなく、相手の音を聞いてそれにこたえるみたいな。まぁ、別に音楽をやっていたわけではないので、その正しさは知りませんが(笑)さまざまな正しさよりも、話しが通じて共感できたり、肯定されたり、関心をもってもらえたりそういうことが重視されやすいのではないかなってことを思います。自信がないとどうしても、言葉尻が気になったりさまざまな正しさに注意がいきすぎてしまったり。

 もちろん、そういう言葉尻が気になったり事実の正しさが気になる特徴の人もいます。そういう人にとっては、正しさを問わない会話のやりとりは新鮮でしょうし、不安から正しさにこだわる人にとっては、正しさにとらわれず思ったことを話せるのは不安からの解放でしょうし。結構大事なことなんだと僕は思っています。

 雑談がこうあるべきということではなく、一般的に雑談というのは傾向として、そういう感じなのかなという気がします。意味がない話し、興味がないというのは、ある意味その話の内容にスポットをあてているんですよね。そうではなく、今はなしたのは、やり取りをするというところ。やり取りをしたという事実が大事で。そこのやり取りから得ているものがある。もちろん、興味のあるところで話せたらと誰もが望むところでしょう。趣味や興味が似た人が話の合う人の一つの条件でもあると思うので。

 雑談の種類ということについて話しをすると別の話しになるので、今回はしません。ただ、雑談ができるというのは、心がのびのびしているというのと、また、不安からの解放のあらわれということを話しました。これが出てくるというのは大事で、その人らしさが見えるということでもよい傾向と思っています。

 何より、お互いが同じ立場で共有できる楽しさというのはいいですね。支援とは違って今この時に同じ立場でお互いの努力によって楽しい時間を作り上げた。共同作業をし、共に感じられた。苦しいはやはりその人のものでしかなくて。それはさびしいものです。もちろん、それを知ってもらうためにも言葉にして、わかっていてくれる人がいるというのは寂しさが少し晴れるものですが。でも、どんなに聴いてもやはり同じにはなれなくて。ただ、雑談のなかでは全く同じ立場で同じように体験できて。それがいい。相談にはない良さがあると僕は思っています。

 相談も雑談もどちらも大事。そんな感じです。今まで会話をおろそかにしてきた僕だからさまざまな発見に楽しくなっていたりします。

 そういえば、実家にいたころバイトしていた先で子どもと関わるボランティアをしていたのですが、その時に子どもが音楽に合わせて手をたたいていたのを、そのときのマイブームだった裏拍を入れたら、そのなかのひとりがまた違うたたき方で返してきてというのがすごい新鮮で、世界が突然開けたような衝撃を受けたのをおもいだしました。あれは楽しかった。相手を感じて反応する。音楽でもダンスでも、さまざまなスポーツでもそうした瞬間って結構好き。言葉を直接使わないからこそ、相手をよく理解することに集中して発する信号のやりとり。なんてことをこれを書いていて思い出しました。