はたらく

 一昨日は土曜日だった。そして昨日が日曜日で、今日が月曜日。定休日を設けていますが、空いている日にお休みをとるというスタイルになっているので、曜日の感覚がおかしくなっていることに驚いたりするここ数日。

 最近、僕のツイッターのタイムラインで「働く」という内容のツイートが流れてきます。なのでちょっと思ったことを書こうと思います。僕は働くことに対して、ゴールだとは思っていないし、それだけが幸せの形だと思っていません。働いていても幸せでない、生きることのつらさを感じている人はいるので。働いて幸せであることが絶対だったとしたら、仕事が原因で命を絶つ人はいないでしょう。

 僕が思うのは、将来仕事についてうまくやれていたらどうなのか?それは幸せなことか。他の質問として、コミュニケーションで自信を持って話せたら幸せか?そこで自分にとって最高と感じられる友達ができたら、関係が築けられたら幸せか?

 もし、そのイメージで幸せだと思うのなら、少し考えてもいいのではないかと思うのです。自分にとって自分の人生でこれができたらいいなって思えることの選択肢のひとつとして、僕は仕事ということを捉えたらどうだろうかと思っています。

 仕事の意味合いというのは、それぞれ自分たちの人生での位置づけによって変わるのだと思います。そこで得たものや、考えを巡らせた結果であったり。みんなそれぞれ答えを持っていると思うんです。そこのところでの働くについて今回は触れません。もしあなたの今の状態でこれができたら幸せかもしれない、楽しいかもしれないと感じるものは何か。それが働くことなのであれば・・・というところでの話です。

 そんなことを思っても意味がないじゃないかと感じる人もいるかもしれません。そんなことはない。幸せのイメージが持てるというのは人生の希望の光だと僕は思います。その感じたものを信じていいのだと思います。ただ、どういう一歩の踏み出しかたをするかです。どんな距離の一歩でもいいと思います。はじめの一歩に距離は関係ありません。初めて踏み出した一歩ということに意味があるのだと僕は思います。

 ひきこもりの状態で仕事をしなきゃいけない、するべきものとしてだけで仕事に向かうのと、もし仕事できたら楽しいかもしれないとか、幸せだなって思うのとは僕は違うと思っています。たとえば、英語が苦手なんだけれども、できないと進学できないからやろうと思うのと、苦手な英語ができたら楽しいかもなというのでは別なんだと思います。しなきゃいけない、するべきものという考え方は間違ってはいないと思います。それもまた一つの考え方なのでしょう。ただ、僕が危惧するのは、しなきゃいけない、するべきものとなったときに、もし仕事に就いた場合、その人は仕事をしていない人を認めることができるだろうか。また、仕事でうまくいかない同僚、仕事で失敗してしまった自分を認めることができるだろうか。失敗を恐れて神経をすり減らしてし続ける仕事をしていて、日常は幸せなのだろうか。

 そういう真面目な人は、日常を振り返ると結構自分にダメ出ししたり、禁止していたりするのかなって思ったりします。「こうあるべき」が多いといいますか。それは悪いわけではありませんが、その振り方がもっと自分や他人に優しいものであれば、真面目でありそれでいてしなやかなものであれば、きっとより魅力的な自分、将来なのではないかなと思います。

 なんとなく主観的で論理性に欠けるかもしれません。あまり論理に縛られすぎると、生きるのは難しくなるしときに光が鈍くなってしまうこともある。主観的で論理性がなくても、心を揺さぶる場面もある。そう自分に言い聞かせて、今日はこの辺でおしまいにします(笑)