普通の生活

 この仕事をしていると普通の生活ということについて考えることがあります。
 もう何年も本人と口を聞けていない、イライラすることがあって家に穏やかさがない、食事を一緒にしていない、苦しい・つらいという話しが毎日の会話になっている。そうしたことは、珍しいことではありません。それが20年続いていても、不思議なことではありません。
 そういう相談を受けていて、笑うようになった、気遣うような言葉がでた、誕生日を祝ってくれた、一緒にでかけることができた、挨拶が返ってきた、ありがとうと言われた。そういう他の家族にとっては何気ないことでも、それが起こると震えるくらいにうれしいというような日常。その瞬間が幸せで、うれしくて。それに気づけるということもまた素晴らしい事で。生活は正しくなくていい。不都合がなければいい。


 話しは変わって、発達障害の家族の集いで本当に苦しい、とても自分が同じ立場ならたえることができようかというような出来事が話にあがったりします。
 それが、あまりにも現実的ではない物語のような苦しみで。でも、そこでは笑い話になったりする。おそらく、その時は親御さんも必死だったかもしれないけれど、その場で話しているときにはなんてばからしいことなのだろうと感じるかもしれない。それもまた大切なことで。そして、少しでも笑えるのならそれでいいのだと思う。仲間だからこそ笑いあえる。もし、仲のよい普通に生活をしている人に話したらなんと言われただろうか。また、ひとりで抱え込んでいたら、それはどういう形に変わっていっただろうか。苦しいことが少しでも笑えるような、そんな気持ちの余裕が起こることが大切だと思う。
 傷のなめ合いでもいい。傷をなめ合う(癒し合う)ことも大切だし、そういう仲間がいること、ひとりじゃないことがなによりいい。ひとりで乗り切れるような、そんな簡単なことではないということを知っているのだと思う。それだけ、関わって苦しんで、いろいろ手を尽くしてもなかなかうまくいかなくて。心がついていかなければ、どんなに知識や方法を知っていてもよい成果はあげられない。また、そこからでは体験できないことがそこにはあって。
 本人の状況や苦しみがわかってあげられなくても、親御さん同士で分かり合えたら、本人に対しても理解がすすむのかもしれないという期待を抱かないではいられない。今の状況や症状で少しでも誰かの理解、共感ができるのならそれはいつか本人にもむかっていくのでしょう。そのとき見えた本人が、少しいつもと異なり、そしてそのことで少しでも家の見え方が変わってきたらいいなと思ったりします。


 この時期は特に調子が悪くなることがあります。みなさんも無理はしないようにしたいですね。