七夕が近いね

今日は訪問が1件。
最近電話が多いが、印刷機いりませんかの電話があったのは初めて。
そういう話しを受けるような団体にまで成長したのかって思うのは、たぶん今だけなんだろう(笑)
最近は訪問と相談の繰り返しの中に、フリースペースやらイベントやらいろいろあるわけで。
今までのようにはなかなか動けなくなってきたのはありがたいのだけれども、そろそろひとりでやっていくことの限界も見え始めたりしている。


働きアリの話し。
働きありの何割かは絶対にさぼるやつがいるらしい。
そして、働いているやつだけとりだすと、そのなかからまた同じようにさぼるやつがでてきて。
同じように働いているアリだけをとりだして、また働かすと同じ割合でさぼるやつが生まれる。
みんなサボるアリに注目がいくかもしれないけれど、逆に全員がサボることにはならないんだよね。


視覚・聴覚・触覚的な感覚刺激を遮断すると最初はリラックスして寝れるけれど、その後落ち着かなくなってくる。
そのうち何か見たり聞いたりしてくなるみたいだけれど、それも制限される。
そうすると、思考の乱れや白昼夢のような空想や幻想がうかび身体的な違和感がおきるなど訴えるらしい。
これは感覚遮断実験とよばれるものだけれど、人間の正常な心理状態の維持には適度な刺激にさらされ自発的・自主的な行動をする必要がある。
また、そうした行動の制限が身体的・心理的活動への動機づけを生じさせる。
まぁ、つまり暇を持て余せ続けるというのは人間には難しいということなのかもしれない。
単調で刺激のない生活というのは、一見楽のように見えてストレスになったりする。
それがきっかけで何かしようと動き出すというのは、たぶん誰もが日常のなかで体験していることなのではないかと思うのです。


逆に一見暇そうであるのだけれど、それが続いているというのはもしかすると本当に暇ということを満喫できていないのではないかと思うのだ。
それしか選択肢がなくて、それを仕方なく選択しているだけなのかもしれない。
だから、ひきこもって毎日つまらなそうにパソコンをいじって生活をしている人がいたら、それはやりたくないことをやっている。
それはいやいや学校へ行っていたり、そうっやって働いている人の心理状態に近いのではないかと思ったりするのだ。
ただ、状況が少し違うだけ。本意ではなくそれを選択しているということに関しては同じ。


この仕事をやっていて「ひまだなぁ」って言えるっていいなぁって思うのだ。
そう思えずに、毎日何かを考えて苦しんでいる日々、葛藤している日々というのは疲れるもので。
暇だよな。じゃあ何かやるか?ってときに、何かできたらそれは大きな一歩なんだと思う。
また一緒にそれを踏み出してくれる人がいたら幸せなんだと思う。
多くの人はそこに「意味のあるもの」「価値のある行動」を考えるのかもしれない。
僕は暇を満たすものであれば何でもいいと思っている。それが先につながろうがつながらまいがかまわない。
なんだか無気力だったり苦しんでいるよりいいと思う。人が生きるってそういうことなんだと思う。
いやいやそんな大きく考えるってどうなのよ?って思うかもしれないけれど、とっても当たり前のことだし誰しもその部分は守って生きているんだと思う。
それが守りきれないくなったときに、人は自分の命を手放そうとするのではないかと思ったりする。


甘い考えでは生きていけないと人と関わると聞くけれど、人生は必ずつらいものでなければならないのだろうか?
甘ったるく生きていたって、つらいことは転がり込んでくる。
わざわざ向かっていかなくたってやってくると思うのさ。
人生は本来楽なものなんです。それぐらいの気持ちで生きていいと思う。
じゃないとその前提だけで死にた?%?ҏなるよね(笑)
人生はつらいものですなんて理解できる赤ちゃんだったら、僕は「間違えました」といって母親のおなかの中に帰っていくのだと思う。
あの時の鳴き声が歓喜の叫びであるのなら、人生はそんなにつらいもんじゃないって思いたいです。
もっと楽しく生きていい、輝いて生きていいと思ったりするのです。
それは赤ちゃんからじいさんばあさんまで。
そんことを思ったりするのです。