講演会の話し続編

講演会の話しというのは、実際に聴いてすごいと思う。
しかし、その支援を受けたいと思うんだけど、それがない。
そして、結局は現状維持になるというイメージが僕にはある。
ACTという体制がなくても、社会資源を必死になって探せばできないことではないと思ったりする。
それはNPOから、ボランティア団体やら、近所の理解者といったところまで。
それを必死になってやってきた例を障害者の介助というところで知っている。
しかし、それだけのエネルギーがその人たちにあるのだろうか、という疑問は残るけれど。


さて、僕が立て続けに更新しようと思ったのは、今まで伝えようと思って書かなかったこととACTの話が少し関連性を持っている気がしたから。
そのとき書くということをしなくても、何かが原因で書くことが動き出すということを僕は思ったりしますがそれはさておき。
以前、フリースペースである利用者さんが話をしてくれました。
「一人でいると、ぐるぐると考えてしまって、しんどくなってくる」という話。
その人としては、考えには必ず結論をださなければならないのだというのがあるみたいで。
それは大切なことだと思うんですよね。着地するところ、方向がなかったらずっとさまよい続けてしまうと思うので。
ではどういう方向で結論をだすのか?というところですが。
それは、より具体的に考えるということ。
悩み続けているときというのは抽象的に物事を考えるようで。
たとえば「なぜ生きているのか?」ということ。
そうではなくて、具体的に考えるというのがポイントらしい。
具体的というのは、行動や生活に結びつくことを考える必要性というもの。
「なぜ生きるのか?」という疑問を考えること自体、行動や生活につながってこない。
たとえ考えたとしても、考える方向として行動や生活に結びつくことを考えるというところなのだろう。
さっきも書きましたが、そうでないとぐるぐると答えのないことをずっと考え続けてしまってしんどくなっていくのでしょう。
と、まぁ、これがすぐにできたら苦労はないですが、ひとつ方向性としてこういう考えを身に着けるのは大切なことだと思ったりします。


このことと、ACTがどうつながってくるのか?というと、昨日僕が考えた「問題のための生活ではない。どう生活したいのか?というところなかでの生活」てはなし。
問題にとらわれてその対策をさまざま考えるということを、何の方向性もなくやり続けるというのは先の方向性と結論の出ない悩みに近い気がする。
逆にこういう生活がしたくて、その生活のためにいろいろと考えることというのは、方向性と結論を持っていると思うのだ。
生活の方向性もなく、問題に取り組むばかりの生活は着地点のない悩み、ぐるぐると繰り返すそれに仕組みがにていると僕は思ったわけです。
これがつながったように思える僕としてはとても重要な発見になったわけです。
そして、その自己満足でこれを書いたわけではあります(笑)とはいえ、誰かの生きるヒントになるといいのかなぁと思ったりもするのですが。


そういえば、先生への質問で、本人がごろごろしていてぼーっとしているということについて先生は話をされた。
本人はぼーっとしているんじゃなくて、いろいろたくさん考えているのだと。
これは、相談でもいわれて僕は少し新しい発見をします。
何も考えていないと判断しているのですが。
何も考えていない状態というのはある意味幸せだと思うんです。
考えるから悩むわけで。そして、気持ちが落ち込んだり、荒れて物を壊したりするわけですから。
いろいろ考えているか、考えるとその答えを認めるのがつらくて仕方がないので考えないようにしているなど、そういうことがあったりします。
表面的におとなしくて話をしない人はあまり物事を考えていないと思われがちですが、実際にはたくさんのことを考えている場合が多いです。
そうそう、本人が自分のことをよく理解しているとボランティアさんから聞きますが、それは自分というものをたくさん考えるからです。
そして多くは自己嫌悪にいたったり、落ち込んだりしている場合があります。自分に何ができるのか?とか考えもしますができないことをたくさん考えていたり。
なかなか本人が今考えていること、悩んでいることを話すことはないというのもそうですし、話せないというのもそうですがそういった機会がないので
何にも考えていないと考えるも当然かもしれません。
そうそう先生は、この質問で「ぼーっとできるような生活。いいじゃないですか」といっていました。
そこにはACTの考えが反映されているように僕には思えるのです。
ただ、親御さんとしては、満足というか十分に受け入れがたい回答だったと思いますが。


加えて質問で、重度の精神障害の人が対象とあったけれどその基準は?というもの。
これに先生は、まず、自分の子どもがそれに該当するか心配なのだと思いますがというのはすごい指摘をしたなぁと感嘆したのですが。
重度であるかどうかというのは、その人の環境が整っていれば軽度で整っていなければ重度となりますといっていた。
なので、多くの場合は重度となるでしょうね(笑)といっていました。
これは結構重要なことなんです。
親御さんとして、自分の子ども症状がひどいといわれる状態にある。
自殺未遂から妄想、幻聴、幻覚などなどで入退院を繰り返して・・・。
とありますが、そうではなくて。
たとえばそういう症状でも、周りに支援がたくさんあって生活がおくれている。
そりゃたまに妄想やら幻聴はあるけれど、それほど困っていない。
かたやこれといって症状はない。
しかし、顔を見るたびに仕事をしろといったり、人格を否定するようなことをいったりする日々で。
話し相手もいるわけでなく、すごしている若者。そして家族は殺伐として、それぞれが孤立している状態。
その人はある意味重度となるわけです。
みつ屋的支援においてはね。そして、先生の伝えたいそれにずれているかといえばたぶんそうではない。
ちなみに、そういう生活をしていれば、なんらかの症状はでると思いますが。
なので、自分の子どもの症状もそうですけれど、それにとらわれすぎないで生活を成り立たせる。
それが成り立つ資源がなくてこりゃいかんと嘆くのはいいと思うのです。
症状がひどくてなげくとなると、それは解決というか生活を成り立たせる方向としては逆に進んでいくのかなぁと思ったりします。
そして、さっき書いたように、ぐるぐると繰り返す生活になるのかなぁと推測したりしますよ。
症状に驚くことはいけないことじゃないのですが、問題の設定を間違えるとちょっと解決が困難に陥りやすくなったりすと思うのです。


書いていると次から次へと思い出しますが、妄想やら幻聴などの症状ね。
症状がでたという感覚ではなくて、生活の躓きに躓いたわけです。
たとえば、多くの人もストレスがかかるとたくさん甘いものを食べたり、ドアを何度も確認したりってあったりすると思うんです。
その表現しやすさが、妄想だったりするわけですから、その原因となりそうなものを取り除けばいいのです。そんな感じなことをいっていました。
あまり病状とかそういうところにとらわれすぎないということが肝心なように思えます。
生活を整えると、それは自然とひいていくものです。
ようは生活の質の改善でしょうね。生きる活力を生み出しやすくするといいますか。
というのは僕の考えですが。もっといい言葉だった気がしますが。


書いていたらながくなるのでこんな感じでいかがでしょうか。