発達障害の親の集い編

今日は午前中に発達障害の親の集いがある。
話しのなかで未発表で思ったこと。
細かい話です。
それは、さまざまな違いとを知っておくということ。そのことは周りもそうなんですが本人自身もそうであるといいと思います。
自分のできないことというのが具体的にどうできないか。
それが他の人もできにくいことなのか、他の人と比べて不得意で苦手なのか。それをできるだけ具体的に把握しておくというのは重要だと思う。
それがこれから先の生活であったり、働いたりする場であったりそういった他の場面でも必要な情報だと思うので。
そして、特に重要と思われるのは、どうするとできるのか。どうすると達成(本人の力によって求める水準が異なる)できるのか。
最終的にできるってことを知り、そのなかで生活をしていくわけですからこれを抑えないと前に進んでいけないわけです。
良いところをきちんと把握しておきたいですね。


それと、違いということについて話に少しでたのですが・・・
感覚の過敏さについてね。
発達障害のある人には、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のどれかが過敏である場合がある。
光というのが強すぎてサングラスをかけて生活している人もいます。
蛍光灯であったり、日光であったり、紫外線に弱いという人もいるようで。
聴覚としては、さまざまな音が入りすぎてしまってきつかったり、サイレンや赤ちゃんの泣き声といった特定の音にものすごい不快感をしめしたり。
嗅覚が過敏で他の人より不快に感じているみたいです。たとえば、トイレのにおいとか化学薬品のにおいとか香水とか。おならに対してはわかりませんが。
味覚が原因かわかりませんが、食べ物の偏りというのがあると思います。からいものばかり食べたり、逆にまったく食べれなかったり。
少し何かがまざっていて他の人は気づかないような少しの味にも反応できたり。
触覚としては、身体に触れられることをものすごい嫌ったり、部分的に首であったり、肩であったり。
逆に鈍感である場合もありますが。
そうした感覚のレベルでの違いということの理解も必要かもしれません。
そして、それは抱えている問題に取り組むときにも把握しておく必要があって。
そういうところでもストレスがあるのであれば、こうしたところのストレスを軽減していくといいと思います。
抱えている問題の大きな課題に取り組むのには大きなエネルギーと時間を必要とする場合があります。
なので、まずは小さなところから、取り組みやすいところからストレスの軽減をはかり大きな問題について考えていくと少しは問題に取り組みやすくなるかもしれません。


この話に関連して自分の特性に関する自覚という部分の問題。あまり熟考していないので簡単に。
発達障害というのは、大きくわけると
自閉症スペクトラム コミュニケーションで困難を抱えやすい
注意欠陥多動性障害(以下、ADHD) 生活面で困難を抱えやすい
学習障害(以下、LD) 何かを身につける(学習する)面で困難を抱えやすい
となるわけですが。
ADHDやLDの人というのは、学校の生活を通して自覚している部分があると思うんです。
先生に注意されたり、周りの人とくらべられたり。家でも親に注意されたり。
それを直そうとして努力をするかもしれない。
ただ、自閉症スペクトラムのコミュニケーションとなると難しい。
誰かに注意されるでも、誰かと比べるでもない。
さまざまな場面、相手によってもコミュニケーションは変わってくると思うので学校場面だけの生活であったり、同級生とのかかわりだけのコミュニケーション
というところでも問題としてなりにくいのかもしれない。
子どものころはそれでいいかもしれないけれど、大人になったら問題としてなるかもしれないことであったり。
大人としての振る舞いといいますか。
また、自分は間違ったことを言っていない、やっていないというところからくるものもあるかもしれない。
間違ったことは言っていないけれど、そこは相手をたてないといけないとか、それを言ったら相手が傷つくとか、場の空気が悪くなるとか。
建て前と本音が苦手で、本音と超本音しかないとか。そういうところがわかりにくい場合がある。
かりに、コミュニケーションが得意ではないと自覚はあっても、具体的にどの部分が苦手か?といわれてもはっきりとは言えない場合がある。
なんだかしらないけれど、自分が相手を不快にしているようだということはわかるくらい。
もちろん、相手が不快な思いをしていることがわかっていないこともある。
自覚がないとただ、相手との関係で自分が嫌な思いをしている。
なんだか知らないけれどそんな日が続いている。それはとってもつらいことなんだと思う。
人の悩みの多くはは人間関係であるといいますが、まさにそこが苦手というのは生きにくさを感じやすいのではないかと思う。
コミュニケーションというのは、本人だけがいくら頑張ってもうまくいきにくいんですよね。
逆に、そのままのパフォーマンスでも、周りが認めてくれれば何も問題を感じることもなく生活できるわけですから。
あまり、そうした幻想に近いようなのはたまに見る夢くらいにしておいて、現実的には理解してくれる人、
いろいろとコミュニケーションについて教えてくれる人がひとりでもそばにいれば、それだけで違うんだと思う。
なんてことを思ったりした。


おまけで、もうひとつ。
コミュニケーションの仕組み。
会話の仕組みって・・・
僕と井上順が話をしているとするじゃないですか。
僕が話して井上順がそれに応答するって場面。


僕が何かを考えて話をする
井上順がそれを聞き、考えて反応する
その反応を受けて僕が考えて話をする


まずは、考えて話をするというところ。
考えたことと、それを話すことではズレが生じることがある。
考えていることを、正確に言葉として発していない場合。
言い間違い(言葉の使い方の間違え)や、自分で言っていて何か違うと思っていたり。
逆に、話しの流れ、相手に伝わりやすい話し方というのをまったく考えずに、思いついたことを口にするということがある。
そういう問題が生じうる場合がある。


そして、僕から発せられた言葉は井上順の耳に入る。
そのときに、聞き間違え、聞き取りにくかったりする場合がある。
聞こえたとしても、僕の考えを正確に理解できているかという問題(解釈の誤りがないか)。
そこで、間違って理解してしまう。相手の意図としていることをキャッチしていない場合がある。
そして、そこから考えてそれを伝える。
そこでも、先ほどと同様に、考えたことを正確に言葉と発していない問題もでてくる。


井上順のそれを受ける僕。
以下同上の繰り返し。
注意すべきは、この繰り返しが起こるたびに、今までの話しの流れを把握しておかなければならないのだ。
それを考慮しながら、会話をしていく必要がでてくる。
だから、「ピーマン」、「ピーマン・にんじん」、「ピーマン・にんじん・大根」、「ピーマン・にんじん・大根・キャベツ」・・・みたいなもんだ。
このたとえはわからなくてもいい。ただ、僕がこのゲームの名前がでてこなかっただけ。それとただいいたかっただけなので。


さまざまなコミュニケーションの工程で問題が生じる可能性を持っている。
しかし、人のコミュニケーションが行われているのは言葉だけではない。
手紙とか電話とかそういうんじゃなくて、身振り手振り、表情、声の大きさテンポといったノンバーバルな情報をキャッチして言葉を選びつつ考えて話をするわけです。
ちなみに、自閉症スペクトラムといわれる人には、こうしたノンバーバルな情報をキャッチするのが苦手である場合がある。
逆にちょっとした変化をキャッチしすぎてしまう人もいるようだ。
少しメモで、人は言葉の意味で相手の理解をしているのが25%でノンバーバルな情報からの理解が75%らしい。
とはいえ、25%にひっぱられてそればかり考えたりするよね、相談って。


これが噂話の場合はどうであろうか。
今までのコミュニケーションの工程がもっと複雑になるわけで。
噂話は真剣に話さない分(責任がうすい)、言葉選びもいい加減だったりして事実と離れていってしまうことがある。
人を介しての話しというのは、本当に本人がそう思っているのか、考えているのかという疑いを持ったほうがいいのかもしれない。


当たり前にやり取りしていて、どこか「当たり前」があるけれど当たり前でないことが起きている場合がある。
そんなときには、これを僕は考えていたりする。
どの時点でエラーがでているのか。
自分の工程での問題か、相手の工程での問題か。


これで話は終わりになるんだけれど、印象のズレの修正って大切だと思った。
その印象は先に述べた75%のノンバーバルからくるものだと思う。
もしくは、まとまっていない考えからくる、なんとなく出てきたもの。
印象が残ってしまうと、それ以降の関わりであったり物事に対する見方に誤解が生じやすくなるから。
相手に対する結論付けは結局は自分で、相手の考えを理解した上での結論とはイコールではないということを少し思った。
微妙な違いだけれど、正確にとらえていない。
その部分をそのままでいいのか、修正が必要なのかということを考える必要があるのかもしれない。
それはもちろん、すぐにでなくてもいい。冷静さを保てていないであろうから。
いつかは、自分のそれに気づく必要があるかもしれない。そうすると同じことは繰り返されるから。
同じ問題、同じ悩み。僕はそういうことがあることを気にしていきたいと思った。うまくできるかわからないけれど工夫しながらやっていきたい。