昨日の講演会

昨日は南保健所で講演会をしました。
となりがKAT-TUNのコンサートだったので俄然やる気がでました。
いや、あんまり影響なかったかな。


初めて一人で舞台に上がり、講演を行う。
初のソロ活動でしたわな。
最初は結構緊張するだろうと覚悟はしていたんです。
少ししてから話せるだろうと思いましたが、参加されているかたのオーラに圧倒されましたね。
ジョークがのどもとでひっかかって飲み込むのが精いっぱいでしたよ。
最後まで緊張がほどけないという、なんとも初々しい感じに仕上がってしまいました。
見事に予定より早く話が終わってしまいました。
内容よりも僕の中でひっかかっているのは、発言をしそこねることです。
たぶん、これは永遠の課題。
僕の話しのなかで、親御さんの好きなことをする。それはストレス解消にもなるし、あまり問題に入れ込みすぎないというところがポイントで。
入れ込みすぎると、他の家族(本人含む)もそんな感じになってしまい、縺れた糸がきつくしばられてしまうわけですね。
しかし、好転するだけでなく本人が「のんきになにやってるんだ!」みたいなことが起こり得るわけです。
その可能性もないわけじゃないんです。
ただ、その結果だけを見てひいてしまうともったいないと僕は思ってしまうのです。
それはものすごいチャンスなんだと推測します。
「僕がこんなに悩んでいるのに!よくそんなことをやってられるな!」というところからくるのならば、それは助けてほしいという思いもあると思うのです。
自分だけの問題だと思っている人は、極端な話親がどういう生活をしていようが関係ないですからね。
そこで、そういう態度をとったら、僕として「困ったことがあるかい?」みたいに声をかけやすくなるんですよね。
「親のしつけのせいでこうなったんだから、親はしっかり悩め!」という本人の主張なら、「親の責任として、あなたの味方になってくれそうな
人を紹介します」と僕を紹介してくれればいいわけです。
もっと具体的に本人がどういう想いを持っているか、ということを親御さんから聞いてやり方は変わると思いますが、
何かの意味がそこにはあったはずなんですよね。僕が関わるのなら、その意味を推測しつつ本人の受け取りやすい形で話しのきけるきっかけを
つくっていったかなぁと思います。
基本的に人は人が嫌いではないと思っています。本当は話がしたい。
たとえば、話題も話し方、言葉の表現もとっても合う人がいて、ほんとに心地がいいと思う相手がいた場合、それでも拒否をするだろうか。
関わりたいと思わずに、今のままでいるだろうか。
少しでも話したいという意思があれば、そこから人との関わりのスタートはできると思うんです。


もうひとつ挙がった話ですが、これはうまく説明しきれた感じがないので悔やまれます。
伝わったのなら、うれしい限りですが。
見守ることを続けることによって、本人が穏やかな生活をとりもどしたとします。
そのまま見守り続けていいのだろうか?という疑問があがりました。
たとえば、本人が自分の意思でなんでも決めて行動する人(行動派)なら、おそらく行動が出てくると思うので見守りましょう。
本人が困っていれば話をきくよ〜くらいでいいとおもいます。愚痴でもなんでも。その程度でいいと思います。
助言やら提案はそれほどいらないかなぁと思ったりします。ざっくり方向を示すとこんな感じ。


親御さんに相談ができる人、そういう関係にあるのなら相談をしていると思います。
その時は話をじっくりと聞いて受容や肯定をするといいのかなぁと思います。
ただし、本人が「こんなことを考えている」というのがあまりにも現実的に難しいのではないかとなったら、個人的な意見として
こういうのがどうかと提案してみたり、それが本当に可能か吟味する必要があるでしょう。
しかし、その際に気を付けたいのが、相手の描いているのを否定することを前提に話をすすめないということです。
それは無理だろ・・・だってこの場合はどうするのさ?こういう場合は?
となると思うんです。悪くはないのですが、やめる方向に話を持っていくかたちでの話し合いになってしまいます。
そうなると、もしかすると本人はもう相談しないかもしれませんし、何かを描くことをやめてしまうかもしれません。
できること前提で、やること前提で、しかし、疑問やひっかかることをきいてみるというのがいいのかなぁと。
どういうかたちならできそうか、どういう条件ならかなえられそうかということが大切かもしれません。
といっても、その態度を示すというのは難しいと思うんです。その態度ができる人はご本人を信頼しているか、彼の人生は彼の人生とみているか
どうでもいいかなと投げてしまっている人かもしれません(笑)


さて、問題は何も反応がない場合。平穏で行き続けている人です。
ひとつは、この生活でいいのだと、僕の人生はこれでいいのだと思っている方です。
もし、不自由なんだけど、こんなもんでいいとどこかあきらめているのなら少しでも自由になる方法を考えませんか?と発することはできます。
すぐに良い返事でなくても、そういう人がいるということで、気が変わった時に連絡できる場所があるということを伝えるのは重要かなと思います。
もうひとつは、本当はいろいろ思っているんだけれど、相談でき人がいなくて困っている場合。
親御さんに未来の話だけはできないとか。言い出しにくい原因は過去をさかのぼらないとわからないので省略。
相手に相談できないというのは、そこにはなんらかの不安材料があると思われるのです。
また、別の場合、未来を描けるうんぬんではなくて、何をしていいのかさっぱりわからない。思いつかない。
何かしないとと思うのだけれど、何をしていいのかわからない。
しようにも、どうすればいいのかわからない。そんな感じ。
つまり、どれくらいかの想いを持っているかわかりませんが、これらの場合は誰か話をきいてくれるひと、いい情報を持っている人が
いたらいいのになって思っているという感じ。そして、その人を見つけられないでいる状況がそれなわけです。


そうそう、見守るということに関してですが、個人的には見守りつつ観察を怠らないということだと思います。
本人は何らかの変化を見せていると思うので。
本当は、定期的に相談があるといいんですよね。そのたびに何があったか報告をするみたいな感じで。
何もなければ何もないでいいのですが。
それに気づくことも親子の関わりの変化にもなってきますね。
コミュニケーションは刺激を受けて反応するわけですから、その刺激をひろえなかったら反応できないでしょ?


気になったのはそんな感じです。
そうそう、精神科での診断名にあまりとらわれすぎないほうがいいですよ。
たとえばですが、強迫性障害と診断を受けたとします。
問題は会社での上司との関係や他の同僚とのかかわり方だったとしますよね。
しかし、その症状にとらわれてその症状をなんとかしようと頑張ってしまう。
そうではなくて、会社での人間関係をどうするか考えていくことが大切なんだと思います。
本人の生活のなかでストレスになっていることを考えるということが重要であって診断をくだされたこと、症状を考えていても問題の解決には
ならないと個人的には思います。できれば、そういうことを主治医の方からいわれるといいのですが。
実際にいってくださる先生も多いですが、多くはないと思います。
それはつまり、生活や人とのかかわりを見直すということですからね。
しかし、問題はそう簡単ではない。
なぜかというと・・・これはよくあるパターンですが発達障害のある方で、自分の日常の何がストレスになっているのかわからないというもの。
たとえば、お風呂嫌いの方がいたとします。でも我慢して入っている。その人はお風呂入るのには膨大なエネルギーをついやしていて。
みんなも同じように苦労して入っている思っている場合が考えられます。そうすると問題だと思わないんですよね。
もし、身体を交換できてお風呂に入ることが苦ではない人と入れ替わったらびっくりするかもしれませんね。
こんなにお風呂に入るのって大変じゃないんだ!むしろ楽しいじゃないか!
てな感じで。
それはコミュニケーションであってもそうです。すごくエネルギーを使っているけれど、本当は周りの人はもっと楽にやっていたり。
また、感覚的なものもそうですね。音に過敏(本人はわかっていない)で音がストレスになっていたり、視覚、嗅覚、触覚、味覚いずれかで
過敏で毎日の何気ない生活がストレスになっていたりすることも考えられる。
そうした日常のストレスが絡まるに絡まることによって症状がでている。
そんな場合がある。


とりあえず、あまりうまくいかなかったことを気にしながらユースクエアに向かう。
発達障害に関する勉強会(支援者のための)をやった。
時期が時期だけにバイトの話しがでてくる。
どんなバイトができるだろうか、どんなバイトがあるだろうか。
就労とまではいかなくても、それの基礎の基礎くらいは知っておきたい。
勉強会の相手の方が発達障害の就労のスペシャリストということで、かなり勉強になりました。
そして、その方の活動というのも気になるものでいろいろとお話をききましたよ。
お知らせできたらお伝えします。


そして、先ほど千種保健所へ行ってきました。
何気に雨でしたな。
そして僕はこのままメンタルフレンドでいかなくては〜。