書くときは書きます

どうも、こんばんは。
なかなか書類の作成に手をつけてはやめてしまう男です。
進まない・・・進まないぞこれは。
しかし、進めなければ。
そして、今月は人様の前で話をする機会を2件いただいている。
こういう場で話すときの自分というのは、自分でもハッとするような態度をとるので結構新鮮で好きだったりする。
どんな自分に出会えるでしょうね。
何年後かになってビデオか何かで自分の様子をみたときに恥ずかしくて見てられないと思ってもいいので伝えることを頑張りたい。
ばくぜんと頑張りたい。とりあえず、頑張りたい。


今日は運営委員会があってでてきた。
なかなかさまざまな角度から考えることがある。
一度頭に描いていることを紙に書いたら面白いんじゃないかと思った。
どんな感じで自分の頭のなかで話が展開されているか。
実は、クセがあるのではないかと今思った。


そうそう運営員会のときに「さぼる」ということがいけないことかどうかを考えた。
そういう話がでたので。確かに、それをすることで作業が遅れたり、誰かがそれを負担しなければならなかったりする。
しかし、そういう関係であったり、作業というものを「継続していく」ためには必要ではないかと思ったりする。
継続しつつ、さぼらないことが理想ではあるけれど、人間ですからさぼるわけです。
さぼるというより、手を抜くことをするかもしれない。いずれにせよ、質は落ちているわけで。
何を求めるか。継続なんかいいからとにかく質は落とすなというのなら、その要求にこたえられる人を配置するしかないだろう。
しかし、そうもいっていられない状況(メンバーが足りないとか)の場合、継続していてくれたほうが助かるわけで。
完全にいなくなってメンバーに穴が開いてしまうと困ってしまう場合、さぼるということもOKないし黙認されてもいいのだろうと思う。


少し違うところから考えると、あるカップルが付き合っていて。好きなんだけれど、どうしても鼻をほじるのが許せないとする。
それを言わずに我慢し続けてきたんだけれど、このままだとこの人を嫌いになってしまいそうだ。
好きである自分としては、それは困ることでずっと好きでありたいと思っている。
そうだ、ここは我慢せずに言ってやろう。


「僕はあなたを好きであり続けたいと思っている。鼻をほじるという行為は私にとってとても不快であり、私から見てあなたの人間としての
魅力をそぐ行為である。だから、その行為をやめてもらうことはできないだろうか。」


と。何かを守るために一歩踏み込む。それはお互いの関係の新しい扉をひらくことになるかもしれない。
我慢をし続けることで、何かが失われることもある。だから、我慢してもらったら、それを穴埋めすることもある。
お酒に誘っておごったり、ねぎらいの言葉をかけたり。
「我慢する」ことに対して、何もないと気持ちは離れてしまう。ただ耐えるだけの日々であればそれはつらいことで。
それに対して、さぼるという行為で我慢する(継続する)ということに関して対応してみたりする。
ふと思ったのだが、さぼりつつも継続していたらそれはそれでいいのかなぁと思う。
やめてしまうのではなく、さぼるということで継続していくのなら。やめる前の前兆ともいえそうだけれども。
なんだか文章を書いていて定まらなくなってきた。
それでも懲りずに書こうと思ったりする。お付き合いしていただけると犬のように尻尾を振ってしまう。


簡単に書こう。
たとえば「なんでそんな重要なことを私に話さないのだ!!」と部下に一喝する上司。
そこへ他の部下が
「そりゃー無理っすよ。だって部長がそんなに怖い顔をして怒るんだから。チョー無理っす。」
これはダブルバインドだな。
私に話しなさい→話さなければならない
怒鳴っている→怖くて話せない→それをいったら言い訳するなと怒られる→無言 or すいません
二つの違うエネルギーが一つの行為に含まれているんですね。
いや、それがいいたいのではなくて、結局は相手の反応も実は自分の態度に原因があることを見直すことを忘れてしまうということ。
僕も結構それは考えたりする。自分の態度をこう変えてみたらどうだろうか、こう接したらどうなるのだろうか。



そこで、前に考えたことを思い出したのでそれをつけたしたりする。
たとえば、相談にのって5年で苦しみからそれなりに解放されたとする。
その5年とはいったいなんだろうか。
僕でなかったら1か月だったかもしれない。
僕でなかったら20年はかかったかもしれない。
その問題の解決への最短記録か?はたまた最長記録か?
そんなことを常に考えていたりする。
たとえ1時間の相談でその人がすっきりしても、もしかするとある人は一言でそういう状態にしたかもしれない。
もしかすると、言葉なしでそうしたかもしれない。
いずれにせよ、その5年というのが私とあなたの関係で生じた事実であるわけですよ。
それ以上でも以下でもないわけで。
なんてことを思ったりする。
自分におごるな!とするためのものであったり、やり方がこれでいいのか?と疑問をぶつけたり、
一つの方向からその事実をみないためであったり、それ以上でも以下でもなくて
これは事実だから「たられば」は考えないでいいんじゃないかと思ったりしたり。
なんかいろいろの意味がある自分へのなげかけ。


「あなたがいて、僕がいて関わってそれが生じた。」



テレビをみていて心にのこる言葉があった。
「自分より小さい動物のいうことを聞いてくれる象の器の大きさ」というのは明言だと思った。
説明できないけれど、聞いて「いいな」と思えた。
ちなみに、誰かのセリフを引用するときに、まったく同じセリフではないということが気になって引用しない場合があるのです。
はっきりと覚えていないんです。まったく同じセリフはかけない。思い出す自信がない。
だから引用しない。今回も書くのをためらったけれど、なんとなく伝わればいいと思ったので書いたりした。


いろいろ書きましたが、こうやって書いたのは僕自身だけれど、これを書かせるエネルギーをくれたのは
もしかすると、地球のうらっかわの小学3年生の2日前の笑顔が、回りまわって僕のところへ到着したんじゃないかって
夜空の星を見ながら思ったりする。
かわいいところもあるでしょ。もっさりした30のおっさんでも。にひひっ。