必要な時間

 昨日、発達障害の家族のつどいにでてきました。新しい年が始まり、どんな一年になるでしょうか。

 僕から話した内容で、頭がぼんやりしていたので、伝わりにくい話しだったのではないかと思ったので、ここで書いておこうかと思います。全部ではありませんが。

 最近思うのは、発達障害を持つ子どもにとって、子どもとしての時間が短いのではないかと僕は思っています。とくに、周りとの違いに戸惑うことが多くトラブルであったりストレスが多いのであれば特に。

 気になる特性のない子にとっては普通にふるまい、それによって周りから共感され自分を表現し自分らしさを磨いていけるのではないかと僕は思っています。友達であれ、自分を囲む大人との間であれ。

 ただ、特性がために、周りと認識が異なり、話しをしても怒られたり嫌がられたり、共感されないことが多かったりすると、他人とのかかわり方はこれでいいというものが身につきにくいと思います。また、自分らしく表現すると否定されるわけですから、自分らしさが伸びていかない、自分らしさがなんなのかがわからない、表現しにくいということになります。スタートが、自分とは何か、他者とは何か、その違いはなんだろうがスタートになるわけです。普通にふるまってそれでコミュニケーションが成り立つのならば、その段階は必要がないでしょう。自然とエネルギーが蓄積されていくと思います。しかし、ずれがあればそこに埋めるという作業が必要となります。

 自分の世界の確立と、他者の世界をしりうまく付き合う力とということが求められられるわけです。同じ子どもとしての時間というのはなかなか大変かなと感じたわけです。ただ、その体験から得られることは、とても大きく貴重な体験なのではないかと感じます。

 僕は、ひとりひとり違う人間で、だからこそ交流し重なるところがあるとそれが嬉しいものだと感じるのではないかと思うのです。気が合うことの嬉しさと言いますか。それをとても強く感じられ、大事にできるのであれば、それは絆となってとても大きな力になるのだと思います。普通にできてしまってはみることのできない世界といいますか。

 そんなことを最近考えました。

 子どもの頃に積み重ねてこれなかったものは、その時でしか得られないことはありません。いつだって、それは可能なのではないかと思うのです。

 今日はだいぶ温かいような一日でした。明日はどんな一日になるでしょうね。