発達障害とは?

 先日、ボランティア研修で発達障害ということに説明をしたわけですが、最近の僕なりの考え方というのを書いておこうかと思います。それは、未来の自分が昔、発達障害ということに関してどう考えていたいのかというのを知る意味で。大学生の頃はどう考えていたのか忘れてしまったのがもったいないと後悔しています。

 発達障害であるということに関して、医学的な見解ではなく、個人的に僕の考えとしては2つの条件が成立して、初めて発達障害としていいのではないかと考えています。ひとつは、発達障害としての特性が認められる。もちろん、検査を行って特性が認定されることが望ましい。そして、2つ目としては、その特性が原因で、本人ないし周りの人間が困難を抱えているということ。つまり、特性条件だけでは発達障害とせずに、特性から生まれる困難があることが条件となります。

 このことは、特性があるだけでは発達障害ではないし、特性と困難があってもそこから困難が去れば発達障害ではなくなるという考え方を指しています。障害というものが実際に脳の機能としての障害と、困り(生活に支障をきたす)という障害の二つを指すものと考えているわけです。

 特性があっても円満にやれていればいいわけです。どんなに認識が人と異なっていようがそれでいいのではないかと。特性が薄かろうが濃かろうが困りがなければグレーでいいのではないか。ないし白でもいい。まぁどっちでもいいわけです。個人的にはグレーのほうが考える上で都合のよさはありそうですが。

 そんな感じでとらえています。

 臨床的な診断というのでしょうかね。臨床的な判断のほうがいいのでしょうね。現在の僕としてはそういう感じです。

 さて、もうひとつ研修で話したこと。これはいろいろ考えていて、気づいたこと。発達障害の障害ということについて。

 これは僕の印象ですが、発達障害の障害に対する印象というのは、知的障害、身体障害といった障害と少し異なるということです(精神障害に関してはあまりなじみがない人、印象がわかない人が多いと思うので挙げていません)。障害として見られにくいといいますか。

 それはなぜか。たとえば、こだわりであったり人間関係のトラブル、生活のルーズさ、習得の遅さなど生活で「よくあるはなし」「きいたことがあるはなし」で包まれてしまうそんな印象が僕にはあります。明確にそこには障害(お互いの)が存在して困っているけれども。障害の認識がぼやけてしまうといいますか。おそらく、ちょっと頑張ればとか、単に相手が性格が悪いだけとか、相手が悪いくらいで片付くと認識しているのではないかと思います。

 そこにはお互いに、想像もしないような世界の違いがあって。ここで重要なのは、普通に努力しただけでは解決しないということがポイントで。精神論で乗り越えられたらそれは障害ではないので、そういうものではありません。それくらいの困りがあるという認識がおそらくないことが多いということです。また、問題なのは、いざこざがあることではありません。いざこざがあっても、お互いにまた一緒に過ごせるならいいでしょう。

 問題はどちらかがとても深い傷を負ってしまうということです。物理的に傷つくというのはもちろん大変ですが、多くあるのが精神的な傷。これによって、生活がままならないくらいになってしまうというのが問題で。人生に大きな影響をあたえるということになったら、これはそこにある障害というものをあいまいにしていいものではないと僕は思うのです。

 しかし、様々な状況を見ているそうではなくて。そこにお互いの障害があると認識することの難しさというのは、今回あまりふれず発達障害の障害って他の障害と呼ばれているもの、自分のなかの障害のイメージと違うよねということだけは書いておきたいと思いました。
 
 発達障害というものの障害という言葉の連想から、そこにある障害を見落としてしまうのではないかということ。その原因は、障害という言葉のイメージが生み出すものと、発達障害の特性の理解ということの2つが絡んでいるのかなとも思いますが。

 そんなことを思いました。