さびしさ

 あっという間に8月も中旬から下旬に向かっていますね。早いもので。

 今日は少し「さびしさ」ということについて、書こうと思います。僕は大人になるまで、自分がさびしいということを感じるというのが「恥」のように思えていました。それは、心細くて誰かがいないと何かを成せないみたいなところから、恥というものをリンクさせていたように思えます。男だからそんなことを言っているとかっこ悪いというか、そういう感じでしょうかね。

 また、そこからその感覚が許されるのは小さい子どもまでと思っていた節もあるような気がします(寂しさを堪えて勇敢にふるまうことのかっこよさ、それが大人みたいなものも影響しているかもしれません)。なので、大人でそれはなおさら恥ずかしい事のように思っていました。今の僕からすると、どんな感情にも素直であることが大事だと思っています。さびしければ寂しいでいいし、怖ければ怖いでいいと思うんです。

 一番恐れないといけないのは、本当はどういう気持ちがあって、今行動しているのか。認識しているのか。気持ちに素直でなくなればなくなるほど、それがわからなくなり、生きづらくなると僕は思っています。

 なので、さびしいと思えること、それを自分のなかで感じ取れることはとても大事なことだと思います。それを素直に認めることも。その次がそれを口にできること、そういう相手がいること。そして、それをどう解消(アプローチ)していくのか。うまくことが収まるのか。

 さびしさを感じない人はいないんだと思います。ただ、それを感じだす前に自然と誰かに話しかけていたり、自分なりの過ごし方があったり、そうしたものが身についているのではないかと思うのです。そして、何よりもこの感情は、いくら年を重ねても慣れるものではないし、慣れないほうがいい感覚かなとさえ思ったりします。

 慣れるより誰かがいてくれたほうがいい。そう思うからです。

 人との関係でいきるからこそ人間であるなら、さびしいと感じる感覚は大事だと思うし、また、軽く見ていい感覚でもないと思ったりするのです。不登校やひきこもりの領域で仕事しているからということではなく、人として大事なことなのではないかと思うのです。

 自分のなかに抱いている感情に対して、今までの歩みで知らないうちにいろんな認識をしていたんだなと気づくことがあります。おそらく、他にもあるのだろうと感覚的に思ったりします。また何か発見があったら記してみようかなと思います。

 暑いのか涼しいのかよくわからないような日々があるなと思うことがあります。涼しいのはありがたいですが、なんとなくそれはそれで調子が狂いますね(笑)今年は暑い日がいつまで続くのでしょうね。気になるところです。