特性と病識

 この仕事をしていて、注意していることがある。それは発達障害と二次障害との関係。二次障害というのは、発達障害の特性からうまくいかないことが続いてストレスをかかえ、うつ病などメンタル的な病気が発症したものをさします。今日は妙に説明が丁寧だ。発達障害がある小学生で家族では特に問題ないが、学校で問題があったとする。その場合、一時的にストレスが高くなり生活で少し変わった行為がでるかもしれないけれど、適切な対応をしていればそれは少しずつ緩んでいく。
 そして、多くの問題が特性と学校での間でどうやってうまくやっていくのか。どれくらい配慮(サポート)が必要で、どれくらい本人ができるのか。特性と環境の整備みたいなものだけで事は済む。特性がどういうもので、どういう生活を送るかというのを描きやすい。簡単そうに書いているのはあくまで比べているのが二次障害との比較なのでそう書いているだけです。もちろん、特性と環境を整備することは容易ではないことは承知の助。

 しかし、中学生をこえてくると二次障害が発生していることが多い。大人の場合は特に。そうすると、特性と二次障害の二つを取りあつかわないといけなくなる。ここに難しさがある。果たして本人は自分の特性と、病気の症状を分別できているか。また、分別できて未来を描けているか。
 たとえば、何の刺激や前触れもなく突然昔の嫌な体験が、まさに今起こっているかのごとく体験することがある。フラッシュバックといわれているものだ。さて、これについて本人はどうなるといいと思うか?また、周りの人もどう考えるか?そういう嫌な体験はなくなればいい。そう思うし、願うだろう。僕も同じように思います。ただ、ここで注意。この思いが強かったり、フラッシュバックが続くとフラッシュバックという現象さえもなくしたいという認識になっていく。
 
 本当にそれは可能なのだろうか(まるで国語の教科書の文章のようだ)。もし、仮に今まで何もなく健やかに大人になり、周りの人にも恵まれて心は健康である状態で、フラッシュバックは起こらないのだろうか?おそらく起こらないだろう。しかし、「突然前触れもなく記憶が蘇る体験」はおこりうるだろう。それは嫌な体験に限らず楽しい体験も「突然思い出す」という現象。
 フラッシュバックが起こること自体否定するとなると、それはもしかすると「突然記憶を思い出す」という特性を否定することにならないだろうか。特性はなくすということがとても困難だと思っている。簡単にのりこえられていたら、こんな苦しみは味わうことはないだろう。また、フラッシュバックが起きることで自分が病人であると認識していたら。病気から起こる現象ではないのに、病気と結び付けたら、永遠に病人となってしまうのではないかというのが僕が気にするところ。そのことで自信がなく、つらい日々が続いてしまうのではないだろうか。

 これは一例でしかない。メンタル的に健康な状態での感覚過敏やADHD的な気分のムラ、こだわり、過度の集中とそこからくる影響。もちろん、その他に挙げたら数が多いので思わず端折りたくなるほどの特性。こうした現象というか特性はメンタルが健康な状態でどうでてくるのだろうか。正直僕はわからない。ただ、今体験しているおそらく発達障害の特性から来ている症状であれば、それは病気と混同すると、ずっと病人として自分を認識し続けるのではないかということはひとつの事実としてありそうだ。それは、僕のこの仕事での数少ない経験から感じることではある。

 特性なのか病気なのか分別しないであいまいにしていたり、混同していると病人であり続けるのではないかと僕は書きました。場合によっては病気のドツボにハマる。とはいえ難しさはある。ひとつは、まず本人が自分の特性を受け入れること。それはつまり、自分の特性をはっきり理解し、自分の中で落とし込めることがないと、病気の現象と区別できないのではないかという考え。それと、特性として受け入れられないと、その現象が起こることも受け入れられないことにつながる。
 しかし、受け入れるというのは言うほど簡単なことではない。その特性がため周りから虐げられたり、うまくいかないことが立て続き苦しい思いを人生の半分以上はしていたり。それを受け入れるというのは、そうしたつらい経験も受け入れるということにもなるかもしれないからだ。できることなら、そうでありたくない。その思いに込められたものを考えれば、受け入れたほうがいいよなんて周りも簡単に言えたものではない。自分を見つめるというのは本当に苦しいことで、人生に大きな意味をもたらす時間だと僕は思っている。そういう意味で、その時間をともに付き合うカウンセラーの先生はすごい。また、何より、キーポイントになるのが周りの人なんだと思います。最終的に受け入れるのは本人でしょうが、それまでの過程は周りの人があってのことだと僕は思っているので。
 もうひとつは、そもそも心の健康な状態でこだわりや過集中、突然の記憶の想起(さっきはフラッシュバックとも言った)、気分のムラというのが存在するのかどうか、またどの程度のものとして現れるかが、どれくらい心が健康な人たちでそうしたものを持っている人はつきあえているのか。そうしたことを周りの人が把握していないだろうというところ。本人はもちろん想像もつかない世界かもしれない。それができないと病気と特性の切り分け、また未来のビジョンが描けないのではないだろうか。
 さらには、日々の生活のストレスのなか混同せずに冷静でいられるかどうか。これは周りの人が冷静であることが大事なのだろう。周りも同じようにこの症状をどうにかしないとという思いがつよ過ぎて特性自体をなくさないといけない!にならないようにしたいところ。とはいえ、周りの人もストレスをためやすいので信頼できる第三者の目もあると良いのだろう。
 これはまだなんとも言えない可能性の難しさの話しですが、どこまで特性といえて、どこまで病気と言えるものなのか。これは仕事をしていて本当に難しいと感じるところです。特性と病気を分けることがそもそも可能なのかというところ。この投げかけによって、この話題が消滅しそうな勢いがあるのはわかります。とはいえ、ある程度あたりをつけてやっていくことが大事なのではないかと思うのです。そのためには、昔どうだったのかというのがひとつカギになるのではないかというところでしょう。それと、検査結果。まだはっきりこうだといえるくらいの経験が僕にないところが悲しいところではありますが、そのことの見解に関しては5年くらいさきの自分にまかせましょう。
 
 特性と病識をわけるのに発達障害というのを理解していないといけないのだろう。それは本で得る知識的なレベルではなく、いろんな人の体験を知っているレベルで求められるのではないだろうか。そう考えるとまだまだ知らないことは多い。知能検査の結果とにらめっこしていても、はっきりとわからないことも多い。まだまだ勉強しないといけないことが多く、それは早急になされないといけないと感じている。それもまたゴールではないわけですし。

 なかなか難しい問題ではありますが、力を入れて取り組んでみないといけない視点ではあると思います。そんなことを感じました。