楽しさ

 おかしい。僕の中では日誌を何回か更新しているつもりなんですが、気づけば1度のみ。脳内で簡単に下書きして、忘れるか満足して終わってしまうかの繰り返しがその原因なんだと思います。
 
 突発的に書いても、「いや、こうにもいえるだろ」ということを自問自答している間に時間もたち書くことの意欲はなくなり、そっとパソコンを閉じているということもあります。

 明日はやる。

 学校へ通っていて、それをよく学び現在、実戦中というところでしょうか。自分の精神衛生上よくないことはわかっていますが、そういう日もある。

 そもそも、間違ったことを書かないというのもおかしいのかもしれないですね。間違ってもいい。あえて、「こういう考え方もあるのでは?」と他者に言ってもらうことも大事なのでしょう。そうです、話しの「隙」を作ることも大事なのです。といいきかせますが、結構全体のバランスをみたり、こうだと言い切ることを苦手とする僕としては、なかなか抵抗のある課題で。その大胆さというのも、僕には足りないところなのかもしれません。


 さて、話しは変わりますが、コミュニケーションというのは楽しいに限る。そう僕は思っています。コミュニケーションに楽しさなくして、元気にいることはできないとさえ、考えてはいませんがどこか感じてはいることで。問題は「楽しい」とは何か。本人にとってコミュニケーションの「楽しい」とは。

 自由とのびのびと話せること。それは僕も思っています。でも、一方で、正しく話せることというのが楽しいと思う人もいるのではないかと最近思うのです。正しいことが楽しいわけがないという感覚はありませんか?僕はあります。自由でありたいので。しかし、逆に何も沿うものがなく自分で何かを生み出すのがつらいという人もいるのではないでしょうか。

 たとえば、本の位置はいつものように同じで、パンの焼く時間や、寝る時間。とにかく規則正しくぴったりときれいに収まるほうが心地が良いという感じ。そういう人かはわかりませんが、そういう沿うものに正しく(きれいに?)沿えると楽しいにつながったり。

 いいたとえを思いつきました。たとえば、絵を写実的に写すのが楽しい(充実感)があるという人と、自由に思い描いたものを描くほうが楽しいと思う人。そういう違いはあるのではないかと思うのです。なかなかいいたとえだと自画自賛

 会話の楽しさというのにもそうしたものがあるのかもしれないですね。会話は何も縛られずにのびのびとするのがいいのだよ。それも確かなのでしょう。好きなようにお酒を飲むのと、作法を大切にして飲むお酒。それぞれ楽しみ方はあるのではないでしょうか。ちょっと作法のたとえはカルーアミルクくらい甘い気がしますが。

 楽しさ(魅力)については、その他いろんな楽しいがあるでしょう。話題の好み、言葉のチョイス、テンポ、声質、挙げたらきりがないのではないかと思っています。いや、実際に挙げたらA4の用紙の半分くらいで終わったりして(笑)まぁ、それを実際に挙げてもいいと思います。人にとって会話が楽しくなる要素はいろいろあって。ただ、最近「正しさにとらわれないほうが正しい」ということを考えている中で、「正しさ」へのこだわりから離れるにはというのを考えていました。しかし、「正しさ」こそ至高ではないですが、それが楽しいに直結していることもあるのかもしれないと感じたわけです。その可能性がないといつから錯覚していたのでしょう。

 いろんな人と出会っていると、なかなか悩ましいものです。しかし、一方で発見という楽しさもあるので、僕としてやりがいの一つにはなっていますが。そんなことを思ったりしました。