8月最初の日誌

8月最初の日誌が6日ということで、放置しすぎてすいません。
身体は起動していますが、頭は夏休みみたいです。
水曜日のボウリングは久しぶりのボウリングの方が多かったですが、楽しんでできました。
その後筋肉痛がなかなか治らなかったなどありますが。
夜のバーベキューではいろんな人が持ち寄ってたくさんの食べ物がでました。
肉を焼いて食べたり、お酒飲んだり、話をしたり、DVDみたり(笑)
ちなみに、バーベキューで釣ってきた魚(僕が釣ったのではない)を焼くのははじめてでした。


木曜日は訪問が2件。他にも何かやったと思うけれど覚えていない。


金曜日にはメンタルフレンドと訪問がある。


土曜日は子供の家の運営委員会。
かなり興味深い話しが多かった。なのでそれを書いていこうかなと。
僕は考えていることを話すのが好きらしい。
文章でのやりとりというのは誤解が生じやすいということ。
確かに文章での行き違いは多い。この仕事をやっていると特に思うが、特別この仕事に限ったことではない。
連絡とか情報の伝達ならとても有効だと思う。メールは特にそうだと思うけれど。
おそらく、文章の行間にはたくさんのことが詰まっているのだと思う。
いろいろ考えていてそれを全部書くと、わけがわからなくなるので簡単に書こうと思う。
そもそも、文章にしたことを全部理解できるのなら、誰だって国語の文章問題は満点なんだと思う。
しかし、点数にばらつきがある。
しかも、その文章を書いている人間というのは、文章を書きなれた人間が書いている場合が多い。


メールでのやりとり。
仲がいい人、相手の考えることがそれなりに分かり合っている仲で誤解が生じたときがあるとする。
そのとき「たぶん、またああいう感じに取り違えているのだろう」と推測がきく。
しかし、相手を良く知らないと情報源は文章だけになってしまう。
そうすると行き違いが起きやすいと僕は考えたりする。
仲が良ければよいだけ、相手を知っていればしっているだけ、行間にはたくさん詰められているのだろう。そしてそこを理解しやすい。
そうでなければ、行間にはあまり詰め込まないほうがよくて、できるだけわかりやすく文章として表現する必要があるのだろう。


相手に何かを伝えたいとなると、結構考えながら書く必要がでてくる。
厳密になりすぎると、文章というのはまどろっこしくなったり、文章量が多すぎたりする。
しかし、いい加減すぎると伝わらないことが多かったり、誤解を生じさせる。
文章を書くというのは難しい。
それと今書いていて思ったけれど、メールって文章を書く感覚が少し薄い気がする。
たとえば、僕のなかではツイッターはかなり自由度が高い。
文章を書いているというより、自分の思っていることの表現。アートに近い。
相手への理解ではなく、なんとなく伝わればいい、もしくは、伝わらないでもかまわない程度。
だから「ひゃー!」とか「よっしゃー」とか「にゃほん!」だけのつぶやきで成立したりする。
(もし、この文章を誰が見てもわかるように、書くのならツイッターとは何ぞや?というところも書かないといけないんだろうね。)
それを少し文章の色を出したのが、チャット。
多少なりとも相手を意識して、「会話(文章による)」という感覚で言葉が展開されていく。
しかも、たわいもないような感じで。
メールとなるともう少し色が濃くなってくる。
会話のような文章のような。いや、会話に近いかもしれない。それと情報の伝達。
たぶん、その次くらいにブログ(公開日記のようなもの)がくるものかもしれない。
あれは結構「文章」という意味合いが強くなってくると思う。


と、ここまで書いたけれど、ツイッターにせよ、メールにせよ、ブログにせよ文章という感覚が強い人はその違いはそれほどないかもしれない。
チャットは会話的な要素が強いかな?
また同様に、どれもツイッター感覚な人にとってはどのツールもそれほど違いはないのかもしれない。
どれもツイッター感覚の僕とすれば、結構文章がいい加減だ。
良い言い方をすれば、「詩」的だ。
論文的に文章を書いたりやり取りする人間にしてみれば、僕が何が言いたいかということ以前に文章として26点くらいと判断されるのだろう。
意識して書いても52点くらいかしら。
そんな僕にとっては文章を書くのは大変なことで。
表現するのも大変ななかで、相手のことを考えてわかりやすく、誤解のないように書くというのは結構難しい。
なおかつ、とげとげしくない文章にならないとなんて考えていたら、文章を書くのが嫌になる。
この文章を書くのもいい加減に疲れてきたところであります。しかし、ここまで読んでくれている人のために頑張りますよ、うん。


僕はこの仕事をしていて、相手を理解するということが重要になってくる。
顔を突き合わせても、勘違いということはでてくる。
そんなことを繰り返しやっていることもあるからか、文章で主にメールなどでやり取りをするというのは非常に難しいのだと最近思ったりする。
まぁ、とはいえ、顔を合わせて話を苦手とする人とすればこれらは重要なツールになってくる。
また、文章だからこそ、読み返すことはできるし、文章ならではの表現というか味わいというのがあるのだろう。
文章で書いたほうが表現しやすいとか、口ではいえないことってあったりもしますし。


読み返すと大したことを主張していないことに気づく。
なんか結構エネルギーを使ったんだけどな(笑)
今、僕は「(笑)」を使ったが、使わなかったらたぶん読む人によっては、不満顔でこれを書いていると思うんじゃないかって思ったの。
「そうじゃないんですよ」ってことで付け足したわけです。
僕を知っている人はそれがなくてもわかったかもしれない。もちろん、そうでなかったかもしれないが。
人はわからないことを想像というもので埋めようとするからね。
その想像は自分の心理状態に影響をする。フロイトってすごいよね。
何か「解釈」や「推測」を加えて「安心」を得ようとする。不安定だと「安心」ではなくて「不安」を得てしまうことが多いが。
しかも、無意識でやっているから大変なことで。それは果たして事実か想像(推測)か。
とにかく、文章って気を使う。


最後に、たまに僕は自分の送ったメールを読み返すことがある。
そして、こんなにもそっけないものなのかと驚くことがある。
そこにはたくさんの思いや言葉が注ぎ込まれているのに。
「はずだったのに」。
文章って難しい。