ワークショップ

今日は国際センターで行われたワークショップにでてきました。
「できることもちよりワークショップ&支援チーム立ち上げプロジェクト」といわれるものでした。
内容は事例の本人(家族)の困りに対して、自分たちのできることをあげるというもの。
たとえば、制度の手続きの申請について行ったり、話し相手になったり、就労先についていって話をしたりなど。
個人レベルから団体レベルのものまで、自分たちの「できる」を提示するものでした。
実際に、僕の団体だけではできないことが多いけれど、こうした「できる」を集めれば困りは小さく可能性がある。



話しの中で本人の困りはもしかすると支援者が抱え込むことで生じさせているかもしれないというのはまさにそうだと思った。
たとえば、医療にだけつながっていて、生活での困りをドクターに相談したとする。
しかし、問題の解決には至らず、デイケアとお薬の生活をしている。
その生活というのが、患者さんのありふれた生活だと思っていたらそれは一つ問題で。
本人の困りであることは変わりがないわけで、またそれが原因で症状が変化しないのかもしれない。
これが抱え込みというもの。そしてそれは支援の失敗事例に挙げられる大きな要因であったりする。
実はこの考えにはさまざまな団体に話をきき、事例を挙げてもらい成功事例、失敗事例から言えることをデータ化したもので。
まぁ、大学の先生の研究論文にでてきそうなものです。
すごいね、ここまでやるんかいって思った。



ワークをやっていて思ったのはいくつかある。
・早急にやらんといけないこと
緊急性のあるものからゆるやかなものまであるのではないだろうかと思ったりもする。



・本人の了解の必要性
これだけできることが多いと、どんどん押し進めたくなるけれど人と関わるのが苦手な人だとあまり周りの人と関わりたくないかもしれない。
できることが目の前にあると本人の意向を軽視してしまう可能性があるので注意したいよねって思ったりする。



・実際にそれを実行するということ、そこから生まれる問題をどう解決するか
おそらくやってみるとさまざまな問題が出てきたりする。
支援している人のまとめる力、イメージする支援の在り方というのは重要だと思う。
本人主体ではなくて、知らないうちに抱え込みパターン多種多様な大きな団体になると困るよねってこと。
これは結構無意識にその傾向になる。
それぞれの団体の在り方は、そこの人の価値観が存在するんだと思う。
そのやる人の価値観ももちろん大切だけれど、本人の世界を大切にする必要がある場合自分の価値観をまずはおいておくことが問われる。
でも、団体をやっている人って、僕もそうだけどその部分がとっても強いんだと思う。
だから団体を立ち上げるなんてめんどうなことをするんです(笑)
そうであればあるほど、無意識に自分の価値観を押し出して相手の話、世界をおきざってしまうことがあるんじゃないのって思う。
そうすれば、さっきの抱え込みの話になってくるわけで、チームとしても機能しにくいんじゃないかって思う。
「その人のため」ということに正解はないんだと思う。それは人生に正解を求めているようなもので。
だからいっぱい悩んでいっぱい考えていく必要があるんだと思う、僕らは。
この問題は本当に難し。「こうあるべき」って思っているのは常に疑わないといけないと個人的には思ったりするくらい。
この問題の他に、どれくらいその人にマッチするのか。
チームとして機能するための情報共有の問題。
まだ動いていないので、どんな問題が発生するかイメージしにくいのでちょっとわからないんですが。



そういえば、こんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、僕は本人や家族の周りに団体の支援者がいなければいないだけ理想だと思っている。
たとえば、僕が毎回訪問しなくても、近所に話せる人がいたり、一緒に時間が過ごせる人がいればいいわけ。
これは、何も特別なことではない。本人や家族からすると支援ととるのかもしれないけれど。
いろんな人に話しかけたり、近所づきあいがとてもとれていて、いろんな人を遊びに誘っている人間からすると、そのスタイルに近づいたようにみえる、ありふれた日常に見えるだろう。
ただ、人見知りだったり、あまり多くな人と社交的に関わらない人にとっては、それは特別なことで。
それが生活とは違う、人工物のようにつくられたなかで生活していると思うかもしれない。
みんななんらかの助けを受けて生活している。もちろん、助けを受けるだけでなくて、それを自分のできるかたちでその人にかえしたりしている。
困ったときはお互い様みたいな感覚。
もしかすると、僕のところに来る人は、そういう頼る部分が苦手だったりするんじゃないかって思ったりする。
生活の場はあくまでその人の地域にあるわけで、それを最大限活かしつつ足りない部分を僕らが補うみたいな。
というか、僕らだってずっとその人にかかりっきりなんてできないわけで。
次から次へと困りごとが僕らのところに届くわけですから。
こうしたことを思ったのがワークの流れででてきた、インフォーマル機能についての話。
近所の人や大家さん友人(同じ状況の仲間も含む)、職場の人、お店の人などそういう人たちの支援というか支えの機能。
そこにボランティアもあったんだけれど、ボランティアってその人にずっとついていられるだろうか?という疑問。
生活の場をともにしていないし。
団体の支援者とインフォーマル機能の人との中間みたいな感じでしょうかね。どうなんだろうね。
とりあえず、このインフォーマル機能は僕も非常に重要だと思った。



このワークはあと2回あるので、それでどうなっていくか楽しみですわな。
こうしたワークみたいなある事例にたいして「できる」を挙げていけるコミュニティがあればいいなって思っているけれど、それをやっているのかな?
もちろん非公開のものでね。僕はそういうのを最近立ち上げようと他団体の人と話をしていたので結構タイムリーなお話でしたな。
明日はなんだか久しぶりなフリースペースがあります。
とりあえず、部屋がとっちらかっていて困っています。誰か掃除にきてください。
僕があれは捨てていいとか指示するので←結局どれも捨てないめんどくさいパターン(笑)
ちなみに、この掃除の話は冗談です。本気に思った方、気持ちだけいただいておきます。ありがとう。