GWじゃないか

おとといは訪問とボランティアさんの研修。
昨日は訪問があった。


みつ屋の活動って「メンタルフレンド」「フリースペース」「相談」ということがあげられる。
僕は「相談」というのは、うちの活動の亜種みたいなものだなってとらえていたんですよね。
なんでかというと、メンタルフレンドとフリースペースというのは、受け皿という意味合いが強いわけです。
そういう場があればいい、そういう人がいてくれればいい。それだけでいい。
そんなところだったりする。
相談となると積極的に問題に取り組むわけですよね。問題への取り組み方、アプローチがそのまま力強いとは限りませんが。
ただ、今の状況をなんとかする手立てを考える活動なわけです。
ちなみに、メンタルフレンドとフリースペースも実は違うんですけれどね。
メンタルフレンドはスタッフが直接的に関わるなかで、ともにその時間を過ごしていくわけです。
そうするとそこからなんらかの変化は発生するわけです。
そして、新しい何かが生まれてきて、それは次の「ステップ」にうつっていくわけです。
ステップといってしまうとなんだか意味が強いですが、わかりやすくざっくりとらえる言葉としては適当かと思ったのでそれくらいでとらえていただきたいです。
どれくらいの期間でそれが発生するかはわかりません。それと主にその人の家にいって関わるわけですから、構造も違う。
書かなくていいかなぁって思ったんですけれど、やっぱり書きます。
誤解が生まれそうなので。「ステップに移っていく」といってしまうと、それを「目的、目標」にしているという印象を抱くかもしれません。
簡単に言ってしまうと、自然と自ら目的や目標を持ち出すのです。
なので、こちらが設定する必要がないのです。
いやいや、結果的にその人が目的や目標を自ら持つことを描いているんでしょ?って思うかもしれませんが、別に持たなくてもいいのです。
とにかく、その人との関わりを大切にできればいいのです。人と人が関われば必ず何かが生まれる。それに気づけるか気づけないかは別として。
この説明は結構きわどい説明なんですよね。なんでかというと、渦中にある人にはとっても意味のなくて、すがるに足りないものだとうつると思うので。
どこかで詳しく説明する必要があると思うのですけれどねぇ。
ちょっと活動について思ったので書いてみました。


ここからさらに小難しい話。
この言葉で読む気力がそがれて読めないけれど、義務というか意地というかそういうもので読むのでしたら日常で362番目に大切なことに対して手を抜きなさい(笑)
「手放しなさい」  そんな言葉も合うかもしれない。
まぁいいや。
スタッフミーティングと研修で話がでたのですが、カウンセリングのはなし。
クライエントがカウンセラーに対して「これってどうすればいいと思いますか?」って質問をしてカウンセラーが答えを教えてくれないって状況。
しかも、答えてくれなくて腹をたてたという場面ね。
僕はその「腹を立てる」ということに気づく必要があると思うんですよね。
なんで腹を立てるのか?その感覚というのはどういうものか?
人によってはそのことで腹を立てない人もいるわけです。悲しいと思う人もいるし、笑ってしまう人もいるかもしれない。
「あははははー、中学のアイツとそっくりの顔したし、今 あはははははー」みたいな。
たとえばですが答えてくれないことが腹立たしいというのに焦点をあててあることに気づくかもしれないじゃないですか。
その腹立たしさを感じていたら、むかしのおやじの姿がみえてきた。大切なことをこたえてくれないあんたは、おやじそっくりなんだ!!
だから腹立たしいんだ!となるかもしれないわけです。
人の感情には必ず今までの歩みが影響していると思うのです。
もちろん、ある程度ストレスに対する反応、物事のとらえかたというのは人間として同じような部分はあるにせよ。
日常のどんな感情に対してなぜそういう感情を自分がもつのか考える必要はないと思うのです。
ただ、心理的な問題が発生したときには、その当たり前だと思っている感情に対して疑問を投げかけたり十分味わったりする必要が出てくるのではないかと思ったりするのです。
感情というのは、当たり前のようでその人の人生が凝縮されているのだと考えたりするのです。無意識の行動もね。
自分の感情は当たり前のようで当たり前ではないのです。
それに立ち止まって考える場であると思うのです、カウンセリングというのは。
ちなみに、伝えないと気づくことなくぐるぐると巡回するんではないか、この人はって思う状況があるかもしれない。
物事を他の角度から考えにくい人ね。たとえストレスがかかっていてもいなくても、さまざまな視点から考えにくい人。
その人に関しては認知行動療法的なアプローチが必要になるのかなぁと思いつつ、なくても人は自分なりの答えを見つけるのではないかと思いつつ。
そこはわかりません。線引きは。
なんてことを僕は思ったりするのです。


忘れないうちに追加ネタ。
ながいねぇ〜、コンスタントに更新していればそういうことがないのかもしれない。
けれど、僕の頭は常に何かが生まれ消えていく。
ふと思ったのですが、以前えんの講座でLDの会の吉田さんのお話の中で・・・
「ほら吹きな子どもっているじゃないですか?LDのお子さんの場合、記憶の整理がうまくなかったりしてそういう表現をしてしまうんですよ」
みたいな話があったような。
たとえば、「昨日東京に行った」といいつつ実は先週だったり。去年だったり。
たしか、吉田さんの説明だと「過去の話は全部昨日になってしまう」のようなことをおっしゃっていた気がする。
使い方が間違っていたらごめんなさい。
説明がうまくないとか、記憶が順序立てて頭にしまっておきにくいとか、言葉の使い方が間違っているとか。
いろいろ話に錯誤みたいなものが見られる場合が考えられると思うんです。器質的なものによってね。
ここで「あ!」って思った人はすごいね。僕をよく理解している。
僕はこのことと、精神障害のある人の妄想との違いについて因果関係が気になるわけですよ。
もちろん、心理的なところから嘘をつく子どももいるでしょう。それによって自分を守るということなのかわかりませんが。
そこから、妄想を話す人もいるかもしれない。もちろん、薬物依存とかその他の症状も考えると思いますが。
でも、器質的な面からのアプローチがあってもいいのではないかと思ったりするのです。
子どものころどうだったのだろう。気になる。
器質的なのかストレスなのかというのは僕の話しでよくでてきますが、器質的なものとストレスの違いで注意することがあるのです。
何かというと、生活の問題。
器質的なものを持っている人は、日常での生活での何気ないことでも困っていたりする可能性がある。
根本的に日常生活の見直しをして、ストレスを軽くできることはできるようにしておきたいわけです。
それが、症状に影響することがあるので。
また、家族への理解ということも必要になるわけです。
たとえば、日常の片づけできないとか、お風呂入らないとか、洗い物をしてくれないとかちょっとした要求。
それが、もっと考え直さないといけない必要性があるのです。発達障害があったりすると。
ふつうの人のエネルギー以上に、そうした作業をするのにエネルギーが必要になっていたりするので。
こうしたことからも、僕は器質的なのか、ストレスなのかというのを考えたりするのです。
とりあえず、その妄想というものには非常に興味深いものです。