台風が逃げた日

今日は午前中は千種の保健所で発達障害のある方の家族の集い。
家庭内暴力というものでの僕なりの見解ですが・・・
広汎性発達障害がある場合


・パニックを起こしていて感情の制御がききにくい
・相手の気持ちが察しにくい(相手の立場にたつのが苦手)というところから
きついことをガンガン言う、手を挙げる(力のセーブが難しい)
・言語表現が苦手(言語でやり取りする選択肢が少ない)



というのがぱっとあがったけれど・・・。
まだあるかもしれない。


発達障害というのは、個人的には説明しやすいので使っている名詞だと僕は思っている。
「障害」という言葉がどうのという話しはよく出ると思う。
結論から言えば、僕は「害」の字は漢字であるべきだと思う。
むしろ、漢字でなければならない。


簡単に書くけれども、そもそも障害というのは、医学的な側面から考えれば
脳のどこかに正常ではない反応をしている(発達障害の場合)、障害をおこしているというところから
障害という言葉を使ったと思う。
つまり、その人間のパーソナリティ云々ではなくて、医学的に機能が正常ではない
反応を示している(障害)ということのみを言っているのである。
また、もうひとつの見解。
これが重要。
障害とは、障害のある人と周りの人間や環境の間にあるものであるという考え。


理解がなくて差別を受ける→障害
制度が整っていなくて生活が苦しい→障害
エレベーターが整備されていなくて駅を使いにくい→障害


こんな感じ。
その人と何かの間にあって生きづらくしていものが「障害」。
障害がなくても、さまざまな異なりから障害が生まれやすいが
障害がある人からはそれが生まれやすいのではないかな。
どちらの見解もその人のパーソナリティには触れていない。
しかし、障害の「害」をひらがなにとか、違う字をということを述べているのは
どうなんだろうか。フロイト的に「投影」がなされているとみた。
というのが学部生のころの僕の考え。そして今も変わっていない。
ちなみに、「害」の字がひらがなでなければ論がいけないわけではない。
なんでかっていうと、大人(親や周りの大人)の態度やかかわりによって私たちの中に偏見や
差別の考え方が少しずつ刷り込まれ、知らないうちにそれらを身につけてしまった
からだと僕は考えている。
誰が悪いわけでもない。そういう時代があったわけで、そこから差別や偏見が
きれいさっぱり断ち切れていないだけ。
人は異なること(奇異なこと)、わからないということにおびえる。
そういうこともスタートにあるかもしれない。
子どもたちはそうした異なりに疑問を抱く。


だからといって差別や偏見のかけらを許していいかといえばそうではなくて。
刷り込まれたそれを少しずつはがしとり、関わることでさまざまなことを
新しく身につければいいのではないかと思っている。


障害の害の字がどうこうことは、ある時の僕はムダ話し合いでしかないと思っていた。
討論をたくさんやるべきだと思った。そのことによって気づくのではないかと
思うから。自分の気持ちに。


そうそう発達障害というのが集いででるけれども・・・。
発達障害であることがいけないわけでも、本人が困っていることではないと
僕は思うのだ。
なぜなら、発達障害のある人でも仕事をして、障害のない人同様、幸せを感じながらその人の
生活をそれなりに満喫していると思うから。
本人の困りや、周りの人間の困りというのはそれぞれの特性、偏り、感覚過敏など
それぞれによってストレスを感じ、生きづらいまできてしまったりすることだろう。
これは微妙な違いかもしれないけれど、僕はズレを正確に捉える必要が
あると思う。
そうでないと、「アスペルガーの人(障害者)と私」という関係になりかねないからだ。
「あなたと私」「息子(娘)と私」といった関係なはずなのに。



たぶん障害の害の字について以前も書いた気がする。
障害に関する考え方については
障害理解 徳田克己さんの本がいいと思う。
それと「こんな夜更けにバナナかよ」もいいと思う。
字はあっているかわからないけれど。
興味があったら検索してみてください。図書館にもあると思う。



午後からフリースペース。
台風だからか参加者が9名。
話しをしてすごす。ピアノやバイオリンやらも聞えてきた。
そして、テレビをもらってしまった。寄付ね。
ゲームしてぇ。ゲームしてぇよ。
ありがとうございます。さすがにびっくりでした。
大切に使わせていただきます。



その後はネットワーク会議。
なんか金持ちだし、本格的にイベントとかやるし。
すげーよ。ちょーすげー。



ごめんなさい・・・最初の文章で力尽きました。
しーゆー。