ひなたぼっこ

今日は春日井の不登校親の会の「ひなたぼっこ」に参加。
順々に今の状況を述べていきましたよ。
たぶんどの親御さんも「このままでいいのか・・・」という不安があると思うんですよ。
支援する側は「待ちましょう」といいますが、これほど意味のない言葉はないと
今日自分で口にしていて感じましたね。
わかってるんですけどね、頭の片隅においておいてほしい言葉くらいで言っていますが、僕は。
それをいって目からうろこで、今日は安心してぐっすり寝れそうですなんてあるわけがない。
「100%正しい忠告はまず役に立たない(「こころの処方箋 新潮文庫)」で河合隼雄先生が
おっしゃっていたことを実感しますね。
もしそれを聞いて実感できればその言葉で、多くの親御さんを救うことはできるでしょうね。
そんなことはわかってる。でもね・・・というから苦しいのです。
ダイエットしないと健康に悪いから、ダイエットしようねといって誰もが成功させられるか。
禁煙しないと病気になるよといわれて、誰もが禁煙できるだろうか。
そんな簡単なことではない。
まぁ、僕は大丈夫だと思います。
何がって、「ひなたぼっこ」という場が少なからずあるからです。
もしその不安を払拭できれば、もうすべては解決したといっていいかもしれません。
たぶん、不登校で問題となるのは、その状況が苦しいという人の苦しみだと僕は思うから。
「このままでいいのか・・・」「大丈夫なのか・・・」などなど。
今まで経験しないような道をわが子がすすもうとしている、すすんでいる。
そこに不安がないといえるようになるには、そうとうの苦しみを経験することになると思います。
それはずっとついてまわる不安なんだと思います。
それをみんなでなんとかしようかということなんです。
怖いのは、そういうことは話せる人や場所がなくて、ひとりで苦しんでいる親御さんです。
僕らもそこに情報が届けば・・・安心して連絡できる場であれば・・・そんなことを考えていたりします。



話のなで、僕らというのはどうやっても親御さんの気持ちを理解することはできないということがあがりました。
自分の子どもが不登校になって同じ立場にならないとわからないつらさ・・・。
まぁ、実際にその人の痛みはその人のものなので、全く同じ経験をするというのは不可能であるし
同じ痛みを味わっているかどうかの確認のしようがない。
それは置いておいて、「あなたたちにこれがわかるのか!」というのはあるでしょうね。
これは「わからない」ということに利点があると思うんですよね。
わからないからこそ、理解しようとするし感じようとする。
また、わからないからこそ、同じ苦しみをもっていないからこそ
冷静に周りをみることができる、飲まれないですむのです。
感情に飲まれて一緒に苦しんでしまったら、周りから見たら
家族がひとり増えて、かつ、辛いからなんとかしてほしいという人が
ひとり増えたことになります。
たとえば、消防隊員が救助しにいったものの、救助される側になってしまった
ということですよね。ミイラ取りがミイラになるみたいな。
それでは、支援する側の意味がない。状況を複雑にしただけのような気がします。
わからないことが悪ではない。わかろうとしないことが、問題となるのではないかな。



人はふいに全部まるごと理解してほしいって思うことがあると思います。
僕はそれを感じることがありますし、そういう人がいないという苦しみも味わったことがあります。
そういう欲にかられる時といいますか。
僕は、自分って欲張りだなぁって思ったりします。が、でもそのときは本気でそれを望んでいたりして。
誰かに完全理解を求めるなんて不可能だってわかっているけど、求めてしまうときがあるんです。
完全理解なんてなくてもいいと思うんです。そう感じるときがあります。
むしろ異なった理解をされたことが苦しいだけの話で、丸ごと理解なんてどうでもいいのかもしれない。
ただ、話を聴いてくれて、気持ちが落ち着ければいいのです。
聴いてくれる人がいるとなんとかやれそうでしょ?今日という日を。



これは個人的なここでの体験。
ここで話される親御さんのことばは生きている。
僕は発言するときに、情報を伝える内容しか話せなかった。
自分の言葉がピーンッって音がする音符のように思えました。
それが下に零れ落ちるというか、そんな感じ。
そして、その場から少し後ろに下がった感覚、そこに居るという感覚ではなく。
また、言葉も届いていない・・・。
意味がないんですよね、僕の言葉って。
僕がそのとき感じたその瞬間にことばを発しなければ、もう全部意味がないというか
生きた言葉ではなくなるというか。
でもねぇ、僕はそのときに言葉をすぐに発言できる能力が低いんですよ。
能力ということばは適切だと思いませんが、とりあえずそうします。
困ったことに。どうもその話のリズムに乗るのがうまくないというか
大縄跳びで入れない子どもみたいな感じになってしまうんですよ。
いやぁ〜まいったな。1対1はまだいけるのですが。
それにしてもいいですね、生きた言葉って。
情報や命令のための言葉と違って、実感して生まれてくることばというか。
たまに、ストレートな感じではないものもあるのかなぁって思ったりしますが。
こういう体験をすると、僕のためにもちょっとしたワークがやりたくなりますね。
自分の感性で、コミュニケーションをする。
生のコミュニケーションというか。
情報交換とか、表面的なものではなくて。なんかメールでのやりとりみたいだね。
事務的という言葉もそうかも。
だからといって、自分の深い話をしなければならないでなく
ちょっとした会話とか、呼んでみたりとか。
僕の今回の体験からの話している内容が少しでもわかるかもって人がいたら
このゆびと〜まれっ!
一人でもやろうと思いますが、ちょっとしたワーク・・・というと違うな
なんか日常でない感じの(日常でおめにかからなくなった)コミュニケーションを
少しでも感じようということをしましょう。
これは自発的に参加したいという思いがないと意味がないので誘うことはしません。
どうでしょうか。早速やりたいです。