文章長い

今日は、中央児童・障害者相談センターへ行く。
場所は市役所などがあるとろこ。まるで迷路。
大学のキャンパス内を彷彿させた。


何をしたかというと、特に何もせずにそこは立ち去った。


そこの職員の方との話しであったが、市が管理しているところに、
民間の団体(フリースクールなど)のチラシを置くことは難しいらしい。
(このさきどうやってみつ屋を認知してもらうかが課題だ。)


この後に、名古屋市役所の近くの精神保健センター、八事日赤駅の近くの児童福祉センターと
発達障害者支援センターりんくす名古屋で話しを聞きつつ、チラシを置いてもらう計画があった。
しかし、どれも市が管理するところだ。
とりあえず、チラシの件は断念し見学だけさせていただこうということで精神保健センターへ向かう。


置いてあるチラシを見ながら少しでも情報を集める。


児童福祉センターに行って、情報収集。
隣のりんくす名古屋でも情報収集。
ここで、職員の方と話しをする。
発達障害のある子どもが不登校になった場合の相談はここで受けるかどうか・・・
について


主治医の先生にその子が相談をするとうことらしい。
その他に、どういう機関があるかの紹介をするとのこと。


機関の紹介で民間のフリースクールを紹介することがあるか聞くことをわすれる。
大まかに「フリースクールというところがありますよ」なのか、「○○というところに行けば情報が手に入りますよ」なのか
その他か気になるところ。おそらく、公の機関の紹介であると思われるが、聞かないことにはわからない。



これは僕の感覚なのだが、主治医の先生に不登校の相談というのは少し違和感を覚える。
必要なのは医学的なアプローチなのか。社会的なアプローチではないのか。
つまり、機能障害の点から問題が生じという視点(個人に要因がある)でとらえる医学的なアプローチではなく
社会との関わりのなかで問題が生じる視点が不登校について考えるときに必要なのではないかと思う。
そうなれば、相談する相手は主治医ではなく、先生であったり、親であったり、不登校を支援する団体、専門家
ではないだろうか。
とは言え、ただたんに相談できて身近な専門家ということで主治医の先生ということも考えられるし、
また、主治医の先生も不登校ということを考えるにあたって、関わって欲しい人物のひとりと僕は思っている。
医学的視点、知識というのはその人物を捉えるときに必要な要素であると思う。


こういうことを書いたものの、書いた僕自身モヤッとしている。
この話しの前提には「不登校は問題である」ということが見え隠れしているからだ。
不登校は問題ではなく、現象だというのが僕の認識。



そういう認識を僕が持つのは「問題=異常」というのをどこかで考えており、
そういうことではないと考えるからかもしれない。


今日はかなりの量を書いた。正直、こういうのは好きではない。
できることなら、簡潔に書きたいものだ。