GWが後半にきたけれどみんなどうだい?

GWをGWっぽく過ごしています。
とはいえ、今日はメンタルフレンドでいってきました。
午前中はなんだかんだでやるべき書類をやっつけたし。
明日もそれをやらんといけないわけです。


そうそう、ツイッターで今話題なんですが・・・

http://osakanet.web.fc2.com/kateikyoiku.html#4

大阪市の「家庭教育支援条例(案)」というのがうちだされたんですけれどね。
第4章で
発達障害、虐待等の予防・防止の基本)
第15条
乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因であると指摘され、また、それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与していることに鑑み、その予防・防止をはかる


(伝統的子育ての推進)
第18条
わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する


だって。
誰が助言したんでしょうかね。
大阪の恥ですね。大阪って発達障害自助グループとか盛んなイメージがあったんですけれどね。
これはひどい
60年前のアメリカか(笑)時代遅れも甚だしいな。
研究者の積み上げてきた実績というものをすべて蹴散らしましたね。
それともこれは全く新しい研究の結果ですかね?
何をどう参考にしたらこうなるのかがわからない。
それと、親のせいじゃないよってことを伝えたり、親にも気持ちが楽になる場をってあったり、学ぶ場であったり。
こうしたところで活動をやってきた人の努力をすべて否定した感じでしょうかね。


ちなみに、「障害」というものの原因の研究って個人的には、人間のタブーのような気がするんですよね。
人間のタブーというか、それを研究するってことは、現在障害者として生きている人への否定にもなるんじゃないかなって思うのさ。
もし、研究で原因がわかったとして、そしたらどうします?
予防しようって思うでしょ?予防するってことは、それは・・・なんだろうね、障害者にはなりたくないってことなんだと思う。
でもさ、すでに障害をもって生きている人もいるわけじゃないですか。
どうするの?その人たちの立場は。
結構人を傷つける可能性のある研究だと思う。
たとえば、この研究で原因が分かった場合。それによって、障害が軽くなったり治療できるなんてことがあったら。
僕はそれを積極的に障害者に勧めるのではなくて、本人たちの意思にゆだねるくらいの姿勢はほしいかなぁって思う。
選択肢が一個増えました。さぁどうしますか?くらい。
みんな治療を受けましょうなんてなんだかねぇ。障害があるからって不幸だと思うなよ!って言われそうです。
そして今回の条例ね。予防だの防止だのって軽いノリで言ってしまうのは違うと思うよ(軽いノリでは言ってないと思うけど軽率だと思う)。
二次障害を防ぐために環境を整えたりするってことを打ち出すのならよくわかるけどこれはないな。
本当は、二次障害なんて言わないで、生活をしやすくするために環境を整えていこうと思うんだよって書いてあったらいいかなぁって思う。


さまざまなところでとってもうなずけて、いい文章はたくさんありそうなので説得力のある文章はその人たちにまかせて僕は僕の感じで書いてみた。
そうそう、僕はいまだに「発達障害が治る」って考えがどうもひっかかる。
他のブログにもありましたが。
少しずつできることは増えていく。
でも、完全になくなることがなくて、そんな自分と歩んでいくのが発達障害なんだと思うんですよね。
「治る」というと、なんか発達障害というものが、完結してしまったようじゃないですか?そんな印象があるんですよね。
発達障害がなくなりましたーみたいな。
たとえば、発達障害の特性というものが成長につれて少しずつできるようになっていくんですよ〜、それを「治る」といいます。
といってしまったら、知的障害も治るってことになるだろう。
ずっとできないことだらけじゃないからね。少しずつできることが増えていく。
その増えていくさまというのは、発達障害に使っている「治る」と何が違うのだろう。
またね、さっきの話ではないけれど、「治す」というのは悪い状態というのを良い状態にするみたいな感じだと思うのさ。
本人がいやだって言っているならいいわ。でも、周りが「治す」って言ってしまうのはどうかと思う。


「障害」ってことについての見方によって「治す」ということのアプローチってのが違うんだと思う。
一つは社会的見解からの障害。これは、人や環境と本人との間にある壁をさすのさ。
周りの人の無理解であったり、博物館へいって説明が文字だけでディスレクシアの人が困ってしまうとか。
もう一つは、医学的見解からの障害。これは脳の障害。とらえ方の偏りや落ち着きのなさみたいなそういうところ。
通常といわれる数値から離れた反応を示す行為や考え方のこと。
おおよそ多くの人が5回読めばわかるものを、20回読んでもわからない人。
逆に1度読めば十分すぎるほど理解できる人。どちらも平均値から離れている人。
たとえば、社会的な部分の障害は環境の整備によって解消することはできるだろう。
それを治すといえばそうであろう。
しかし、医学的な面に関しては何も変わっていないわけで。
さっきも書いたけれど、緩やかに発達していくことを治ったとしたら、それはさっきの説明どおり治ったという定義から外れると思う。
治ったならその状態と付き合い続ける必要がないからだ。
その点からしても「治る」という言葉はどうも腑に落ちない。
障害があってもなくても悩むものは悩むわけで。生きづらいなっておもったりするわけですよ。
ほんとはあまりそういう領域(括られたもの)にとらわれないで、生きづらいなぁ〜てことに関して考えていけばよろしいのかと。
力みすぎるとなんか違うほうへ飛んでっていきそうじゃん。その「治す」とか障害の害の字がどうのとか。
まぁ、そうやって積み重ねて成長していくんかもしれないなぁ〜なんてことも思ったりする、30になって。