アプローチ

今日は某大学の先生とお話しをする。
関わっている方の、現在の状況をお互いの情報を伝えて確認したり、
これからどうしていくかということを話し合った。
これはたぶん連携ということなんだと思う。
僕の描く話し合いには、そこに本人は当然のことドクターであったり
その人の関わっている専門家がそこに集まるということ。
また、場合によってはご家族がそこにいるということなので人数はだいぶ少ない。
高齢者の介護でいえば、担当者会議にあたるものなのかもしれない。
とはいっても、そういう場を設けてくれた先生には大変感謝しています。
環境を整えるというのは、結構難しいこと。
そのためには、今ある学校のシステムに変化をくわえるということにもなる。


ひとりの努力ではやはり個人の負担が大きい。
また、それを受け止めるとなると、それを受け止める人の負担も大きい。
本当は友達がいて手をかしてくれればいい。しかし、それをシステムとして
つくらないと難しいのが現状であったりすると僕は考える。
以前僕が通っていた大学では聴覚障害のある人のためにノートテイカーという
ボランティアがあった。
ひとりが先生の話している内容をパソコンで打ち出して、サポートにもうひとり
ついて先生の話している内容を打ち出す。
それをみながら講義を受けるというもので。
そのボランティアというのは、そこの大学の学生で時間が空いているときに
ボランティアをするというもの。ちなみに、そこをまとめているのはそこの
大学の先生で。
最初は確か友達が、そういうことをやってくれていて、それがシステムとして
できあがったというものだったと思う。


障害が目の前にあったときに。どう対応するか。
その個人にトレーニングをかすのか。
その個人に新しい道具を持たせるのか。
周りの人の力を使うのか。
周りの環境を変えるのか。
おそらく、多くの場合最初の個人をトレーニングさせるというところでアプローチ
するだろう。一歩進んで、道具を使う。
結局のところ、個人に対するアプローチでしかなくて。
間違いなく、それも重要なんだけれど、それだけだと今の状況を軽くするのには
重い負担がのしかかる気がするのだ。
このことに関して書いていくとものすごい量になりそうなので書かない。
しかし、「支援」というものを考える中で重要な部分だと僕は思うのよ。


いつかは、そういう考えが当たり前になっていくのだろう。
それだったら今やってしまっても20年後やっても結局はそのシステムをつくるんだろう
って思うのだけれども、今やると精神的にも肉体的にも重労働になるんだろうね。
でも、そうなると今しんどいと思っている人はどうなるのだろう・・・。
できる範囲でいいからなんとかしたいものです。